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2003年4月に女流育成会に入会、その2年後の2005年4月に高校2年の時に女流2級としてデビュー。 賞 大賞 賞金30万円 主催 仙台短編文学賞実行委員会 締切 2020年11月16日 (月) 第20回 湯河原文学賞 小説の部. 諏訪市pr用ロゴマーク・キャッチコピー募集 . 番号順に1戦目を行い、2戦目以降は同一成績者による戦い。1勝同士、1敗同士等々。参加者全員が満遍なく試合を行える、普及に繋がる等のメリットがある方式。1戦目の時点の割り振りで近接者や強豪同士を離しておく調整が必要。, 最終的な勝ち数の成績が優先になるが、同一成績者が複数になった場合(4勝1敗が5名等)は、対戦した相手(勝っていようが負けていようか)の勝ち数を全て数え得点とし、その合計点により順位を決める。点数が同一なら、勝った時だけの点数を合計するとか等々がある。, 長男くんの先日の大会は1戦目に負けてしまったので、2戦目は負けたもの0:1同士で。3戦目は1:1同士。4戦目は2:1同士。5戦目は3:1同士での対局だった。結果4:1。結局1戦目の壁棋友K君が対局相手としてはあきらかに最強だった。33名という多人数の参加だとそんな感じになり敢闘賞である4勝1敗の結果ではあるがこの大会方式を理解できる大人としては手放しで喜ぶわけには・・・, 実際、K君は鬼っ子との対局もあり3:2の結果で終わった。成績だけみれば4:1と3:2だが内容は天と地ほど離れたものではある。, 1戦目の振り分けをもっと考慮してもらいたいものだが、そんな余裕はあるわけもなしか。, 長男くん、2月の大会で小学生低学年部門で優勝。よって上のカテゴリーであるBに自主的に移行した。そのBクラス挑戦最初の4月の大会(4局全敗)での小学生高学年部門で優勝した教室友(最近調子が良い、教室で連敗している)と今大会で対局があり勝利している。, 1戦目に負けたせいで親のテンションは下がっており、残り全ての勝利を暗に願っていたので高学年優勝者への勝利も含めた結果は正直メチャ嬉しい。, 大会中、子どもの結果をちゃんと見ている(気にしている)保護者は半分もいないような感じだ。単なる子どもの付き添いで付き合っているような。もう半分くらいはいい成績を残して欲しいと応援している感じ。, もう少し結果を残せるほど強いはずなのに、あの子よりも強いはずなのに・・・子ども友達のほうが良い結果に終わることは、組み合わせによって多々ある。色々と顔見知りもできてきたため、自分たちより棋歴が少ない親御さんたちが、そんな感じになっているなと思うと、いたたまれない気分になる。, 最近、顔を見ないな〜って子もちらほらいる。結果が出ないと面白くなくなる。どんな世界でもいっしょのことだろうけど、だらだらと子ども時代を過ごしたわたしには想像するだけでなんか重い。夢中になれるなにかがあればいいんだろうな。, 家で一日中ゲームをやっているのがある意味、普通の子どもって感じで健全かも(現状の次男ちゃんん)・・・とりあえず現状だと勝者も敗者も存在しないので。, しかしながら今現在リアルタイムで長男くんが夢中になっているものは「キャッチボール」である。, GW後半中に公園に行き、なんとなく軟球とグローブ(子ども用なのだがなぜ家にあるのか不明)でちゃんとしたキャッチボールを教えてみたら、長男くんにしては意外と出来た。「のび太のくせに生意気だ」状態。さらに次の日もやってみたらキャッチボールが成立した。使用した軟球がどこぞの公園で拾った8年もの以上の凹凸が無くなったツルツル軟球のため、次の日にはホームセンターで新規購入。. 賞 最優秀賞 賞金10万円 主催 長野県諏訪市 締切 2020年11月15日 (日) 第4回 仙台短編文学賞.

藤井四段を目指す子供たちを育てたい...指導者として蘇った「伝説の棋士」永作芳也の棋士人生をたどる, 映画『鬼滅の刃』国内の歴代興行収入5位に。公開24日で『ハリポタ』1作目超える【ランキング一覧】, カマラ・ハリス氏はなぜ勝利演説で白いパンツスーツを着たのか。初の女性副大統領誕生へ. 556最初に、将棋大会で行われている大会方式についておさらい。。☆スイス方式総当たりのリーグ戦は時間的に無理なために行われる運営方式。番号順に1戦目を行い、2… Copyright © 2020 , HuffPost Japan, Ltd. All Rights Reserved. 続きを読む. 井道 千尋(いどう ちひろ、1988年5月21日 - )は、日本の将棋の女流棋士。女流棋士番号は34。石川県珠洲市出身。石川県立珠洲実業高等学校卒業。木村義徳九段門下。, 6歳のときに将棋好きの父に教わり将棋を始め、中学1年の頃に女流棋士を目指し始める[1]。珠洲市立宝立中学校時代に中学生選抜将棋選手権全国大会に出場[2]。, 2003年4月に女流育成会に入会、その2年後の2005年4月に高校2年の時に女流2級としてデビュー。当初は石川県在住だったために所属は関西在籍だったが、高校卒業後の2007年4月に拠点を東京に移す。, 2008年12月3日、第35期女流名人戦B級リーグ9回戦で鈴木環那に勝利して女流初段に昇段。, 2017年6月28日、第3回女子将棋YAMADAチャレンジ杯で中澤沙耶に勝利して女流二段に昇段。, キャッチコピーはブログで募集し選考された「能登の陽だまり」[4]。またそれ以外のニックネームは「チヒロール」[5]。, デビュー直後から同じ関西所属で、かつ同時期に女流棋士になった里見香奈・室田伊緒と共に「キラリっ娘」というユニットを組み、数々の将棋イベント出演などの活動を行い、また3人で共同執筆していたブログ「キラリっ娘のそよ風日記」では、井道が最も多く記事を書いていた[6](里見香奈#キラリっ娘のそよ風日記)。「キラリっ娘」ユニットは井道の関東移籍後も続き、2010年5月まで活動を継続していた。, 2016年度からNHK杯テレビ将棋トーナメントで飯野愛らとともに週替わりで譜読み上げを務めている。, 関東の若手将棋棋士チーム「東竜門」のマスコットキャラクターである「りゅうもんくん」の生みの親でもある[8]。, またアマチュア時代には石川県在住のアマチュア強豪、鈴木英春の指導を受けており、鈴木のオリジナル戦法として有名な「かまいたち戦法」を得意にしていた。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=井道千尋&oldid=79878794.

藤井四段ブームで賑わう将棋界に一本のニュースが舞い込んだ。それは「伝説の棋士」永作芳也氏の消息を伝える記事だった。, 永作氏は1989年、突如として日本将棋連盟を「退会」。棋士の身分を捨て、将棋界から姿を消した。当時伝えられた引退理由は「名人になれないと悟ったから」。そんな人物が、約30年の時を経て、再び姿を見せた。今度はプレイヤーではなく指導者として...。, 永作芳也とはどんな人物なのか?将棋界を離れたいまの近況は?将棋ライターの松本博文氏がレポートする。, 2017年7月21日。いまや社会的なブームに沸く将棋界では、二つの大きなニュースがあった。, デビューから無敗で、史上最多の29連勝を達成し、現在の将棋ブームを巻き起こした藤井四段が、33戦目の対局に臨んだ。対局相手は若手実力者の三枚堂達也四段(上州YAMADAチャレンジ杯4回戦)。, 結果は219手の大熱戦の末に、三枚堂四段が藤井四段に勝った。藤井は公式戦2敗目を喫したが、それでも、その時点で31勝2敗という、信じられないような成績である。対局室にはやはり、多くの報道陣が駆けつけていた。, もう一つは、夜におこなわれた、名人就位式である。同時代に一人しか存在を許されない名人は、将棋界の頂点に立つ存在として、将棋を愛する全ての人々の、憧憬の対象であり続けてきた。春から初夏にかけておこなわれた名人戦七番勝負では、佐藤天彦名人が、挑戦者の稲葉陽八段を相手に4勝2敗の成績をあげ、シリーズを制して、防衛を果たしていた。, 「貴族」と呼ばれる29歳の若き名人の就位式には、多くの女性ファンの姿も見えた。その式典の様子は、やはり多くのメディアを通して、広く伝えられていた。, そして同じ日、21日の朝。一部の熱心なファンや、将棋関係者の間で、驚きとともに話題となったニュースがあった。記事が掲載されていたのは、茨城県の地元紙である「茨城新聞」の社会面。同紙のウェブサイト上にも転載されていため、多くの人々の目にとまることになった。, 【参考記事】元プロ棋士、夢託す 藤井四段活躍に触発(茨城新聞クロスアイ 2017年7月21日), 2017年現在、「永作芳也」の名を見て、すぐに「ながさく・よしなり」と読める人は、あまりいないだろう。永作は、1979年に、将棋のプロとして認められる、四段に昇段。80年代には、努力と闘志の若手棋士として知られていた。, タイトル獲得や、棋戦優勝などの実績はない。それでも永作という棋士の存在は、当時の熱心な将棋ファンの記憶の中には、鮮烈に残っている。, 1987年のNHK杯トーナメントでは、昇竜の勢いの羽生善治四段と対戦した。永作青年は、天才少年の変幻自在の指し回しの前に、敗戦を喫する。テレビでその模様は、広く伝えられた。もしかしたらこの一局が、永作の棋士人生における、ハイライトだったのかもしれない。, そして88年。永作は、将棋界から忽然と姿を消した。「引退」ではない。多くの人々から尊敬を受ける、棋士という身分を投げ打っての、「退会」である。なぜそんなことをするのか。伝えられた理由は、あまりにも衝撃的だった。, そう言われることもある。しかし現実には、どうであろうか。少なからぬ棋士は、ごく早い段階で、自身の技量については、おおよその見当をつけている。, 仮にどれだけ自信があろうとも、結果という現実の前に、いつかはどこかで、その自信は打ち砕かれる。名人位を、将棋界の最高峰の地位を争うことができるのは、棋士の中でも、ごくひとにぎりの者だけだ。だから仮に、名人になれないと悟ったからとして、棋士まで辞めることはない。, 現代の将棋界では棋士になった順に、「棋士番号」が割り振られている。たとえば、加藤一二三は64。羽生善治は175。藤井聡太は307である。その中で、現在までに欠番となった例は、ただ一つしかない。それが永作芳也の、139だ。, 永作が忽然と姿を消してから、約三十年。その消息は、一般には、ほとんど知られていなかった。, 「茨城新聞」の三次豪記者は、深い敬意をこめて、永作のことを「伝説の棋士」と伝えている。それが誇張であるとは、筆者は思わない。少なくとも、80年代から将棋ファンだった筆者にとっては、伝説の棋士であることに間違いはない。, 電話の向こうでは、少し茨城弁のなまりのある声で、永作芳也は、戸惑うように笑っていた。, 「行方」は、一般的には難読地名の一つとして挙げられる。将棋ファンにとっては、青森県弘前市出身の、行方尚史(なめかた・ひさし)八段の名は有名だ。一方で、茨城の地名では「なめがた」と、にごって読む。蛇足ながらつけ加えれば、「茨城」の読みは「いばらぎ」ではなく、「いばらき」と、にごらずに読む。, 永作からは、そう丁寧に教えてもらった。麻生までは、長距離バスが最もポピュラーな移動手段だ。, しかし、永作の教室は、始まるのが朝9時と早い。それに間に合うバスはなかったので、始発の電車を乗り継いでいくことにした。, 7月23日、日曜日。東京の郊外に住む筆者は、朝5時過ぎの電車に乗って、茨城県に向かった。地理的には、そう遠くはない。日帰りで往復できる距離である。それでも、片道3時間以上の行程だ。, 最近の将棋ブームで、筆者はいろいろな原稿を依頼されるようになった。藤井聡太四段のこと。最近の将棋界のこと。あるいはコンピュータ将棋ソフトのこと。テーマはさまざまである。能力以上に多くの仕事を引き受け、常に締め切りを気にする日々を送っている。この夏は、おそらくずっと、原稿を書いているだろう。目の前の仕事をこなせるのかという不安は、常に離れない。それでも、何をさしおいても、伝説の棋士には、すぐに会いに行きたかった。, 行きすがら、筆者はスマートフォンで、永作の過去の対局の記録である、棋譜を並べていた。, という言葉がある。永作が将棋界を去っても、永作が残した棋譜は、消えてなくなりはしない。永作がかつて指した将棋を何局も再現してみて、率直に思ったのは、華麗さとはほど遠い、いうことだ。しかしどこか、見る者の胸を打つような、ひたむきな気迫を感じた。, JR成田線に乗り、国際空港で有名な、千葉県成田市を過ぎる。窓の外に目を向ければ、のどかな田園風景が広がっていた。, ここは江戸時代に正確な日本地図(大日本沿海輿地全図)を作成した、伊能忠敬(いのう・ただたか)ゆかりの地である。忠敬は五十を過ぎてから、十九も歳若い高橋至時(よしとき)を師として測量術などを学び、五十五を過ぎてから十数年かけて、日本全土を周り、地図を完成させている。晩学の代表のような人物である。若くして既に実績を築きつつある、早熟の代表の藤井聡太四段とは、対極のような存在であろうか。, 7月19日は、藤井の誕生日だった。藤井は地理が好きなため、師匠である杉本昌隆七段は、プレゼントの一つとして、日本の都道府県地図が描かれたノートとともに、伊能忠敬をデザインしたボールペンを贈っていた。藤井ブームの現在にあっては、そうしたことも、ワイドショーで取り上げられている。, 鹿島線に乗り換え、長い橋を渡って、広い利根川を渡れば、茨城県に入る。鹿島線をずっといけば、終点は鹿島サッカースタジアム駅。鹿島アントラーズの本拠地である。その手前の潮来駅で降りて、鉄道の旅はここまでとなる。, 「潮来」もまた、知らなければちょっと読めない。1960年、歌手としてデビューする前の橋幸夫は、「潮来笠」という曲の楽譜を渡されて、「しおくるかさ」と読んだという。, という歌い出しで知られる「潮来笠」(いたこがさ)は、シングルレコードが100万枚以上売れる大ヒットとなり、潮来の名を全国に知らしめた。, 潮来は古来、利根川の水運の要衝に位置して栄えたところ。現在では、あやめが有名で、5月末から6月にかけておこなわれる「水郷潮来あやめまつり」には、多くの観光客が訪れる。, 将棋教室が開催されているのは、潮来駅から約10km離れた、行方市麻生の天王崎観光交流センター「コテラス」。霞ヶ浦に面し、景観が美しいことで知られる、天王崎公園内の施設である。路線バスは十年ほど前に廃止されており、移動手段は、タクシーしかない。駅前に止まっているタクシーの運転手さんに行き先を告げると、, と尋ねられた。夏休みが始まったばかりの、特に大きなイベントはない日曜日だった。もう少し先の8月11日には、茨城県唯一の湖上花火大会である「なめがたの湖上花火サンセットフェスタin天王崎2017」が開催される。, 地方での取材は、タクシーの運転手さんとの会話から始まるのも、ひとつの定跡である。地域出身の棋士の名前を出して、運転手さんが将棋好きなら、話がはずむこともある。, 「昔、将棋のプロだった永作芳也さんという方が、コテラスで、お子さん向けに、将棋教室を始めたんです。それで東京から、取材にやってきました」, ところで、茨城県出身の著名人をあげていけば、もちろんキリがない。たとえば大相撲の世界で、「角聖」とも、「中興の祖」とも言われる、第19代横綱の常陸山(ひたちやま)は旧水戸藩士の家の出身である。近年では、牛久(うしく)出身の稀勢の里関が、第72代横綱に昇進して話題となった。, 力士は、郷土の誇りであろう。それと同様に、将棋の棋士もまた、将棋を愛する地元の人々にとっては、希望の象徴である。, たとえば地方で、海千山千の古強者や、全国的にも名を知られるような県名人クラスをなぎ倒し、県大会で優勝する、年若い子供が現れる。驚くような出来事ではある。しかし将棋の世界では、わりとよくあるストーリーでもある。地元の人たちは、その子供を「天才」ともてはやす。そして、自分たちの夢を託したくなる。この子がプロの養成機関である奨励会に入れば、難関を抜け、棋士となるのではないか。そしてもしかしたら、将棋界の頂点に立ち、同時代にただ一人しか存在しない、名人にもなれるのではないか、と。, 茨城県からもこれまでに、何人かの棋士が輩出されてきた。永作芳也も、その一人である。ただし、将棋界の頂点である名人や、タイトルを獲得したことのある棋士は、まだいない。, タクシーの運転手さんからは、将棋界が一般の社会に、どのように見られているのかも、教わることが多い。, 「私は将棋はよく知らないんだけれど...。ほら、最近はよく、テレビでやってますよね。天才の、中学生の。藤井君ですか?羽生さんとやったら、どっちが勝つんですかね。あとは、ひふみん?そうそう、加藤一二三さん。面白い人ですよねえ」, よく知らないと言いながらも、それだけご存知であれば、素晴らしい。年配の、明るくよくしゃべる運転手さんと、将棋界の最新のトピックで話がはずむのは、こちらとしても嬉しかった。, 運転手さんが名前を挙げた棋士を、年齢順に記せば、加藤一二三(77)、羽生善治(46)、藤井聡太(15)となる。現在の将棋ブームの中ではこの三者が、世間に名が通る棋士の、ベスト3なのかもしれない。並べてみて気づいたが、この三者の間にはちょうど、31歳ずつの間隔が空いている。, 年齢が離れた三者には、共通点がある。それはいずれも、中学生のうちに四段に昇段した、すなわちプロ棋士になった、という点だ。「天才」とは、一般社会においても、ありふれた表現であろう。しかし上記の三者は、真の意味での天才と言える。将棋界では、彗星のように周期的に、歴史に残る天才が現れる。それは、偶然のことなのだろうか。, 運転手さんからは、いろいろな質問をされた。将棋界は厳しいところと聞いているが、実際にはどうなのか。トップクラスの棋士は、どれぐらい稼ぐのか。棋士は何手先まで読めるのか。そして藤井少年はこの先、名人になれるのか。などなど。, そんなよくある将棋界の話をしているうちに、窓の外には、風光明媚な、霞ヶ浦の風景が広がってきた。, 「こちらでは植樹祭がおこなわれてて、天皇陛下もお泊りになられたことがあるんですよ。昔はここに、泳ぎに来る人も多かったんです」, 晴れていれば、近くには筑波山。遠くには富士山も、きれいに見えるらしい。あいにくこの日は曇り空で、今にも雨が降り出しそうだった。, タクシーは、コテラスについた。運転手さんにお礼を言って、外に降りた。コテラスに入ったところにはすぐに、手書きのちらしが張ってあった。, 伝説の棋士、元日本将棋連盟所属の永作芳也五段は、現役時には、烈々たる闘志を隠そうともせず、盤に向かうことで知られていた。, そんな理由で若くして、棋士の身分まで捨てた人である。電話越しでは、やさしい口調だった。しかし本当は今でも、激情の人なのではないか。内心、そうも恐れていた。実際に会ってみればすぐに、失礼な見当違いだったとわかった。, 永作は現在、61歳。茨城県潮来市で、保険代理業を営んでいる。将棋界とは約三十年の間、ほとんど没交渉だった。, そんな永作が、出身地の行方市麻生(旧麻生町)で将棋教室を始めることとなったきっかけは、いまの藤井ブームである。地元の麻生では、永作がかつて棋士だったことを知る人は多い。永作は、そうした人たち何人かから、子供に将棋を教えてくれないか、と頼まれた。, 「私もずっと将棋をやってこなかったんだけど・・・。自分の気持ちの中では、五十ぐらいから、七十を過ぎたら、仕事もゆっくりしながら、町の皆さんに貢献ってわけでもないんだけどね、将棋の指導でもやろうかなとは、思ってたんですよ。ところがたまたま、こんな感じになっちゃったもんだから、十年ぐらい早まっちゃってね」, 永作の教室は朝9時と、始まるのが早い。先生の真面目さを反映しているような時間設定でもある。場所はコテラス2階の、小さな会議室を借りている。, 筆者の心を見透かすようにして、永作はそう笑った。9時を回った時点で、10ほどある席に座っていたのは、小学生の女の子、ただ1人だった。近隣にちらしを配って、生徒の募集を始めたばかりである。それはそうでしょう、と思った。, 女の子には、前回の教室の終わりに、宿題が課されていた。テキスト上に駒が記してあり、動けるところに丸をつける、というものだ。, もし羽生善治を野球のイチロー選手に喩えるなら、永作は、若き日のイチローと真っ向勝負をしたことのある、日本プロ野球界の元実力派投手にもなるだろう。現役を退いた後であれば、名門校や、社会人チームの監督でも務められる実力があるだろう。そういう人が、近所の小さな女の子を相手に、キャッチボールか、あるいは野球のルールを教えるところから始めようとしている。, 将棋を愛する人が、その面白さを伝えるべく、子供や女性や初心者に、丁寧に将棋を教えようという試みは、いつでも尊い。しかし現実的には、大変である。将棋教室を始めてみたものの、思いの外、手間や時間や経費はかかる。そして経済的には、ほとんど見返りがない。持ち出しになるケースも少なくない。, また、どの世界にも共通することではあろうが、名選手が、名コーチになるとは限らない。天才が、最良の教師になるとは限らない。自分の能力を伸ばす才能と、他者の能力を伸ばす才能とは、似ているようで、かなり違う。, 将棋は奥が深いゲームである。だからこそ、四百年の間にもわたって、遊び続けられてきた。しかし、その面白さを知るまでには、最初のハードルが高い。駒の動かし方、ルールから始まって、基本的な考え方、玉の詰ませ方、簡単な手筋、などなど、覚えることはたくさんある。実力、適性、やる気もまちまちな初心者に、根気よく向き合い、将棋の奥深さ、そして楽しさをわかってもらうまで導くのは、そうたやすいことではない。, やがて教室には、もう2人の女の子が現れた。これで全部で、3人である。みんな友達同士だという。, 教室の外には、娘を教室につれてきた、3人のお母さんたちがいた。今をときめく藤井聡太四段のお母さんの裕子さんは、聡太少年が小学生だったときには、将棋教室や大会、そして関西奨励会までの遠征に同行していた。, 裕子さんは、そう回想していた。子供の才能、実力とは関係なく、そうしたお母さんたちの存在があって、将棋界の未来は支えられている、とも言える。, 聞かれてもいないのに、思わず筆者はそんなことを語り始めようとした。自分の挙動不審ぶりにすぐに気づいて、あわてて、口をつぐんだ。, 永作芳也(ながさく・よしなり)は1955年9月27日に生まれた。同じ誕生日の羽生善治は、1970年生まれ。両者はちょうど、15歳差ということになる。, 永作の出身地は、茨城県行方郡麻生町(現・行方市麻生)。永作という珍しい姓は、このあたりが発祥である。現在は「なめがた大使」を務めている、女優の永作博美さんの実家は、永作芳也の実家から、十軒ほど離れた近所だという。, 「そんな強くないですよ。普通の将棋好きの子供と同じぐらいです。いま活躍しているプロ棋士たちとは全然違う」, 現在活躍している棋士の多くは、小学生のうちにアマチュア高段者となり、小学生名人戦などの全国的な大会で実績を残した後で、奨励会に入るケースが多い。永作の将棋人生は、そうした早熟組とは、どこまでも対照的である。, 永作が将棋の魅力に取り憑かれ、プロになろうと思ったのは、実に高校2年生の時だった。しかも、その頃もまだ、プロをうかがえるほどに強くなっていた、というわけではない。弱く実力もないまま、夢に衝き動かされての、見切り発車だった。奨励会員が高校在学中に、ある程度の見通しが立って、高校を中退するのとは、まるで意味が違う。恐るべき決断をした後、永作は麻生を出て、東京へと向かった。, 「当時としても、一番遅いですよ。まあほんと、晩学です。いまの子供とはだいぶ違います」, 1973年、秋。18歳になっていた永作は、加藤恵三七段(没後追贈八段)門下として、関東奨励会に入会した。級位は一番下の、6級だ。現在の、さらに高度にレベルアップした奨励会であれば、受験の段階でアウトだろう。, 永作の入会からしばらくして、規定が改められ、18歳での6級受験はできなくなった。2017年現在では、6級であれば、入会試験受験の時点で、満15歳以下でなければならない。, 奨励会もかつては、今と比べれば人数が少なかった。永作が入会した頃には、東西合わせて約六十人ほどである。新入会者のレベルはそれほど高くないこともあって、牧歌的なところもあった。, しかし、その当時にあっても、18歳6級でのスタートは、晩学組の、さらに最後方のあたりに位置した。関西奨励会に目を転じてみれば、1973年の春に入会した谷川浩司は、11歳で5級である。, 多くの「天才少年」が、棋士となる夢はかなわず去っていく競争の場に、まだ弱いまま、永作は身を投じた。, 奨励会は、互いにシビアに、才能の値踏みをし合う場所である。対局を重ねていくうちに、その実力は、盤上に表される指し手とともに、白黒の勝敗でも、すぐに明らかとなっていく。年長者というだけでは、尊敬はされない。むしろ、歳をとっても弱いということであれば、遠慮なく、侮蔑の対象とされる。, 永作の伝説は、ここからはじまる。はた目には絶望的なスタート位置から、永作は、後に語り草となるような、超人的な努力を見せた。同時代に、永作に才能があると思っていた棋士、奨励会員は、ほぼ皆無と言ってよい。しかしその努力ぶりについては、誰もが目をみはった。, 「周りの奨励会員と見比べて、自分は才能はないなと思ったものですから。藤井君なんかの場合はね、才能プラス努力ということがあるのでしょう。しかし私の場合は才能がないから。人よりは頑張らないと一人前にはなれないと思った。やっぱり自分でも、人よりは努力したと思います」, 自分に才能がないことを認め、それを受け入れるのは、誰にとっても、容易なことではない。特に、小さな頃から「天才」と呼ばれてきた者にとっては、そのままアイデンティティの崩壊につながる。勝敗という現実を突きつけられ、自分の真の才能を思い知らされ、精神的に深刻な打撃を受けて、そのまま立ち直ることなく、競争の舞台から退場していくケースも多い。, 永作はスタートの時点で、自分自身の才能のなさをよく知り、それを前提としていた。全国から集まった、才能あふれる奨励会員の中にあって、才能なきものに残された道は、ただひとつしかない。それは、尋常ではない努力だ。, 永作は人一倍、記録係を務め、先輩棋士たちの対局の棋譜を取った。先輩に請うて練習対局の相手となってもらい、数多くの実戦を指した。「塾生」と呼ばれる、将棋会館住み込みの雑用係になっていたので、仕事をこなす間に、人の二倍にも、三倍にも努力を重ねた。, 将棋界では、「耕(たがや)す」という言葉がある。現在では盤面上のある局地を、地道に開拓していく、という意味で使われる。もともとの意味は違っていた。それは泥臭い努力を続けている、永作のためにできた言葉だった。永作とほぼ同時代に奨励会に在籍し、現在は著名な競馬ライターとして活躍する片山良三は、当時を述懐する。, 「彼が塾生部屋でね、もう一日中、安い盤に向かって、駒を叩きつけるようにして、棋譜を並べているわけですよ。それはもう、盤がへこむぐらいにね。それで先輩たちから、『永作君、盤たがやして、何やってんだよ』って揶揄のされ方をされるわけです。彼がたがやしている盤は、本当にとげとげで、荒れちゃうんです」, 入会してから1年余り。19歳になっていた永作は、ようやくにして規定の成績をあげ、5級に昇級した。4級になったのは、20歳である。, そこからあとは、次第に昇級のスピードが加速していく。年齢制限の最初の関門である初段には、21歳の時に到達した。ちょうどその頃、永作は東大将棋部との対抗戦に参加することになる。, 一人とは、プロの公式戦において。1983年、名人戦七番勝負で加藤一二三名人(当時)を破り、史上最年少の21歳で名人となった、谷川浩司である。, もう一人は、アマとの非公式戦において。谷川浩司の実兄である、俊昭のことである。永作が奨励会に在籍していた頃、谷川俊昭は、東大将棋部に在籍し、学生の中の最強者とも言われていた。大学卒業後も、アマトップとして活躍し、アマプロ戦では、四段時代の羽生善治や、佐藤康光にも勝っている。, 谷川俊昭は、将棋の強い子供として、既に小学生の頃から、全国的にその名が知られていた。そのきらめくような才能は、疑うべくもない。もし、灘中、灘高から東大という進路を選ばず、奨励会に入って棋士を目指していたら、将棋の歴史も変わっていたかもしれない。, 1977年。『近代将棋』誌の企画で、奨励会の初段・1級チームと東大将棋部との、5人対5人の団体戦が、2度にわたっておこなわれた。東大将棋部は、大学将棋の伝統的な強豪校である。当時は特に、「史上最強」とも言われるほどに、メンバーが揃っていた。, 団体戦の1度目は、東大側が3-2で勝った。奨励会側は、屈辱的な結果ととらえた。そして「リターンマッチ」として2度目の場が設けられる。そこで当たったのが、永作芳也初段と、谷川俊昭・学生王将だった。, かつて将棋は、相撲と並んで、プロとアマの間に、圧倒的な実力差がある競技と言われていた。相撲はどうなのかは、筆者にはわからない。ただ、将棋に限っていえば、プロとアマが真剣に戦う場がなかった時代には、そうした伝説が独り歩きしていた感がある。, 1970年代に入って、若手棋士とトップアマとの対抗戦が、次第におこなわれるようになった。その結果を素直に解釈すれば、プロ側に分があることは、間違いない。しかし、その実力差は、言われていたほどには離れていない。それは、当然のことでもある。もっといえば、健全なことだ。, 現在であれば、プロがアマに負けても、さほどのニュースにはならない。しかしかつては、そうではなかった。絶対に負けてはならないというプロ側のプレッシャーは、いまとは比べ物にならない。プロに準じる存在の奨励会員も、その点では同様だった。, 永作初段と谷川学生王将戦の経歴は、いかにも対照的である。そして両者の対局は、熱戦となった。これは推測ではあるが、両者の棋力は伯仲か、もしかしたら、谷川の方に分があったかもしれない。しかし、より強く勝ちたいと思っていたのは、明らかに永作の方だった。, 戦形は、谷川の三間飛車に対して、永作は急戦を仕掛ける。永作の棋風は、居飛車の本格派だった。, 永作君の対局態度は闘志満々で、ときどきたくしあげた両腕に力こぶを作るようなガッツポーズをとる。相手が時間の切れそうなのを見て、「そろそろ時計をとる準備してください」と、さすがにプロの卵、勝負にからいところをみせる。一方の谷川君、谷川浩司新四段の将棋の先生にしてお兄さんということだが、まことにおとなしい青年。, 永作初段の気合に、谷川学生王将が気圧されるような様子がうかがえる描写である。あるいは、辟易するところもあったか。谷川俊昭さんに当時のことを尋ねてみたが、, と苦笑していた。もう四十年も前の話なので、それは仕方がない。当時の棋譜を手元のコンピュータ将棋ソフトで検討してみると、中盤で戦いが始まったあたりは、谷川よし。最後はきわどい終盤戦となり、勝負を制したのは、永作初段だった。, 感想戦で永作君の「やはりこちらがずっとよかった」という意見をだまって聞いていたが、実戦中は谷川君、自分の方がよい、と思っていたのではないか。終盤に読みちがいがあって、指し手がちぐはぐしてきたようだ。, 将棋ほど、負けて悔しいゲームは、そうはない。その点に関しては、プロもアマも変わらない。だから感想戦で、ことさらに敗者の感情を逆撫でしてはいけない、「勝者は常に謙虚であれ」というのが一般的な不文律である。テレビで放映される対局の後の様子を見ていると、難しそうな顔をして、しきりに「自信がありませんでした」などとつぶやいているのは勝者の側、ということはよくある。「ずっとよかった」と、ことさらに力んでみせる必要はない。, 一方で、「将棋は二度勝て」とも言う。勝負に勝ち、対局後の感想戦でも相手を負かそうとするのも、真剣勝負の場では、しばしば見られる情景である。たとえば、「不世出の勝負師」と言われた木村義雄・十四世名人は、感想でもまったく譲ることなく、相手の主張を認めなかった。当時の永作のマインドも、そちらに傾いていたのだろう。, 団体戦は、奨励会2勝、東大1勝の後、奨励会側の高橋道雄初段が、まさかの大逆転負けを喫していた。後に棋士となり、数々のタイトルを獲得した高橋現九段も、若き日には、こうした辛酸をなめている。高橋はこの敗局の後、頭を丸めて坊主になったという。, 団体戦は、奨励会2勝、東大2勝の後、最後は奨励会の小野修一初段と、東大の岡和田剛、大将格の対局が残った。途中は小野が優勢。しかし岡和田が底知れぬ力を発揮して、大逆転。最後は岡和田が勝ち、東大が3勝目をあげた。, 奨励会チームの先輩格で、当時三段だった武者野勝巳(現七段)は、以下のように記している。, (前略、奨励会幹事の)松下八段が、「東大の人は強い、今後、学生さんから対局希望があったら初段、二段で迎えなくては仕方ありませんね」と苦しそうに語ると、キャプテンの小野初段があふれる涙をこらえられなくなった。, そう語るのは、やはり東大将棋部で活躍した、奥村幸正である。奨励会に入る前の小野とは阿佐ヶ谷の町道場で、何度も指した。実力は奥村の方がはるかに格上で、何度も負かしていた。, という言葉があった。才能がないものは、努力しても無駄だ、という意味である。残酷ではあるが、それが奨励会における、大方の現実だった。, 東大との対抗戦に敗れた小野修一初段は、その敗戦をバネとするように、後には順調に、昇段を重ねていった。一年余りして、20歳の時には、念願の四段昇段を果たしている。, 1982年、小野は若手棋士の登竜門である、新人王戦で優勝を飾った。その際、『将棋世界』誌に、自戦記を書いた。記事のタイトルは、, というものだった。ユニークで、くすりと笑えるようなタイトルである。しかしそれは、小野の痛切な叫びでもあった。, 小野と年齢は違えど、奨励会入会同期の永作も、同じようなスピードで、三段まで昇段した。その時、22歳。18歳6級でのスタート、19歳5級、20歳4級というペースを考えれば、途中からは飛躍的に加速したといえるだろう。, 青野照市五段(現九段)は、「花咲かぬ蕾はない」と題して、奨励会のレポート記事で、永作を取り上げた。晩学で、才能がないと言われ続けた永作について、こう書き記している。, それでも毎日毎日人の倍以上も、盤の前に座って研究を続けていた。(中略)その研究熱心なことはいやおうでも、みんなの目をひいた。「あんなに将棋が弱くて、才能がない男は見たことがない。いくら頑張っても、絶対に一人前の棋士にはなれない。保証する」「いや今だかつて、あれだけいっしょうけんめい研究して、ダメになった奨励会員はいない。いつか必ず花が咲く時が来る」という具合に、外野では二つの意見が真っ向から対立していた。, 後者の意見を書いたのは、青野のやさしさだろう。おそらくはずっと、前者の意見が圧倒的だった。しかし、「盤を耕しているだけ」と、永作を笑ってきた者たちも、永作が三段になった頃には、笑えなくなっていたのではないか。プロとなる四段にまで、永作は、あと一歩のところと迫っていた。, (前略)永作君はあるとき、3手詰の局面に追いつめられた。頭に金を打たれ、逃げれば頭金の詰み、みたいなやさしい形である。相手はもう投げるだろうと思い、感想戦のセリフまで考えていたが、永作君は考えたっきり投げない。10分たち20分たちしても動かない。結局、永作君の持ち時間が切れて終わった。相手が「なにを考えていたの?」と聞いたら、「投げずにいれば、君が心臓発作を起こすかもしれないじゃないか」平然と答えたそうだ。, 永作芳也という棋士を語る上で、何度も繰り返し語られてきたエピソードである。はたしてそれは、本当なのだろうか。, 「記憶にないなあ...。(誰かが)作ったのかねえ。おれのタイプじゃ、相手に失礼だから言わないと思うよ」, 永作自身の記憶に照らし合わせれば、その「伝説」の真偽はわからない、ということになる。, 片山良三は、それは他の努力型の棋士が、奨励会の時に残した言葉が、混同して伝わったものではないか、と推測する。永作の言葉ではないにせよ、そうした姿勢で勝負に臨む者は、他にもいたのだ。, 「奨励会の頃は、それ(相手の心臓発作を待つという伝説)に近いことはありましたよ。ともかく、どんどん上がんなくちゃしょうがないと思ってたから。もう必死だったから。自分は才能ないと思ってたから。極論を言えば、相手を突き落としてでもいいから勝とうぐらいの気迫で、やりましたよ。誰しもあるじゃないですか」, 「四段になってからは、そういうことはないと思います。そんとき(奨励会在籍時)は必死だったんだよね。それを、尾ひれはひれついて、そういうことになったと思うんだけど。やっぱり、勝負だから甘くないんで。勝負事は、相手のことばっかりを気にしたら、勝てないから。自分がどうしたら勝てるかってことを考えれば、それに近いようなことは、考えることはあると思いますよ」, 【※】後編に続く⇒藤井四段を目指す子供たちを育てたい...指導者として蘇った「伝説の棋士」永作芳也の棋士人生をたどる, 選りすぐりのニュースやブログをお届けします(広告などが掲載される場合もございます)

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