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西武ライオンズ 解説者

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東尾 修(ひがしお おさむ、1950年5月18日 - )は、和歌山県有田郡吉備町(現:有田川町)出身の元プロ野球選手(投手)、監督、野球解説者。日本プロ野球名球会理事を務める。, 1968年に西鉄ライオンズに入団し、以降は太平洋・クラウン・西武と球団名が変わってもライオンズ一筋でプレーした。1970年代から1980年代のパ・リーグを代表する投手であり、同年代の山田久志(阪急)、村田兆治(ロッテ)、鈴木啓示(近鉄)らとしのぎを削った。, 1995年から2001年までは西武ライオンズの監督を務め、1997・1998年の2年連続でパ・リーグを制した。通算165与死球はNPB記録[1]。, 京都の平安高校に合格し、すでに下宿先の手配など京都での生活準備が進んでいたがその評判を聞いた和歌山県立箕島高等学校野球部監督の尾藤公が直々に口説き、一転して同校に入学。エース、四番打者として1967年秋季近畿大会に進み、1回戦で東山高、準々決勝で甲賀高をそれぞれノーヒットノーランに抑え注目を集める。決勝では因縁のある平安高の池田信夫と投げ合うが敗退。準優勝にとどまるが、1968年春の選抜への出場を決める。箕島高は甲子園初出場であった。同大会では準決勝まで進み、この大会に優勝した大宮工と対戦した。3点を先制するがその後は吉沢敏雄(慶大-東京ガス)に抑えられ、8回に逆転され敗退[2]。同年夏の甲子園県予選では2回戦で星林高に敗れた。尾藤は後に甲子園で4回優勝(春3回、夏1回)という実績を残したが、「この年(1968年)のチームが最強であり、優勝できなかったのは自分自身の経験不足のため」と語っている。, 1968年のドラフト会議で西鉄ライオンズから1位指名を受けた(全体の12番目)。ドラフト前には他の球団から何らかの接触があり、中には1位指名をほのめかした球団もあったというが、西鉄からの指名は事前に何の接触も無い唐突なものだったため、東尾の両親は「東京や大阪のチームならともかく、離れ小島みたいな(当時の本拠地の)九州のチームに息子を入れるわけにはいかない」として西鉄への入団に猛反対、指名を拒否して大学へ進学することを勧めた。東尾自身も西鉄の一方的な指名に腹を立て、一時は法政大学への進学を決めかけていた。また、これ以前にも慶應義塾大学のセレクションを受けていたことがあり、この時は打者として受け、もし慶應に入学していたら野手に転向していたと話している[3]。しかし、「西鉄もプロのチーム。そのプロが1位指名してくれた」と思い直し、両親を説得して西鉄に入団した。東尾は後に、「1位指名だったからこそ入団した。西鉄は1位指名によって僕のプライドを守ってくれた。1位指名でなければ西鉄に入団しなかった」と語っている(しかし、自身の著書『ケンカ投法』では「2位でも入っていたし、3位でも入っていたかもしれない」と語っている)[4]。, プロ入り当初は周囲のレベルの高さについていけず、1年目の夏には「このままではいつまでたってもプロでは通用しない」と考えるほどだったという。二軍でも打ち込まれて自信を無くし、首脳陣に野手転向を申し出たこともある[5][6]。ところが、1969年に「黒い霧事件」が発生し、エースの池永正明ら主力投手が軒並み永久追放されて投手不足となり、一軍の投手としてフル回転せざるを得なくなる。投手コーチだった河村英文に才能を見込まれてシュートを習い[7]、加藤初と共に連日350球から400球という投げ込みを課せられた。なお、東尾は黒い霧事件により自分にチャンスが巡って来ると感じ、内心喜んだという。後に「自分の野球人生における最大のチャンス到来、ターニングポイントだった」と語っている[8]。, 黒い霧事件の余波を受けての戦力低下、観客動員数の激減などで西鉄は1972年オフに球団を手放し、福岡野球が運営する太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズとチーム名が変わるなど不安定な経営状態となったが、東尾は低迷時代をエースとして支えた。1975年には23勝15敗で最多勝となる。1977年オフには巨人から東尾を獲得の申し出があったが、球団は「東尾の放出は球団の死を意味し、それは我々が経営の当事者である限りありえない」との声明を発表した[9]。, 球団は1978年オフに福岡野球から国土計画に売却され、1979年から西武ライオンズとなる。前年から引き続き指揮を執った根本陸夫監督は、編成の要職も兼任し、トレードなどにより選手を大幅に入れ替え、西鉄時代からの生き残りは東尾と大田卓司の2人だけになった(東尾と大田は、共に西鉄が西武になるまでの全てのライオンズ球団に所属した選手である)。, 1982年、球団管理部長専任となった根本の後任監督に広岡達朗が就任した。広岡はチームプレーを重視した守りの野球を展開し、同年5月の試合において、東尾の一塁ベースカバーが遅れたと感じた広岡は、東尾を先発ローテーションから外す姿勢を打ち出した[10]。翌1983年には東尾の投球に関して、広岡が試合後に「八百長をやっているのではないか」とコメントしたことがスポーツ紙に報じられたことから東尾が激怒したということもあった[11]。, チームは広岡監督が就任1年目の1982年、翌1983年と2年連続リーグ優勝、日本一を達成し、1985年にもリーグ優勝する。東尾はこれら3度の日本シリーズでは全てリリーフに回り、1982年には日本シリーズMVPに輝き、胴上げ投手にもなっている(中日戦、大島康徳から三振)。なお、投手が救援登板のみでMVPを獲得したのは日本シリーズ史上初で、2017年の日本シリーズでデニス・サファテ(ソフトバンク)がMVPを獲得するまでは唯一の記録だった。1983年には2度目の最多勝、最優秀防御率、ベストナイン、パ・リーグMVPなど数々のタイトルを獲得している。, 1984年には通算200勝を達成した。1985年はタイトルこそ獲得出来なかったが17勝3敗の好成績で、21勝を挙げた佐藤義則(阪急)を差し置いてベストナインに選ばれた。, 1986年、6月13日の近鉄戦(西武球場)で、6回1死にリチャード・デービスに投じたインコースのシュートが、踏み込んだ近鉄のデービスの左ひじにあたり、これに激高したデービスがマウンドの東尾に駆け寄り右ストレートを放ち、その後蹴りや4、5発のパンチを浴びせるなどの乱闘事件となった。デービスはこの時「コントロールのいい投手が、ああいうところに投げるのは故意としか考えられない。狙って当てたんだ」と怒鳴り散らしている。デービスは退場となり、東尾は「ここで降りたら恰好悪い」として続投し完投勝利している。なお、デービスはこれにより10日間の出場停止、罰金10万円の処分を受けている。日本ハムの監督だった高田繁は「今回だけは東尾に同情しない、今までやりたい放題だった」と述べている[12]。一方で、阪急監督の上田利治も「ウチだってやられたらいくで」とコメントしたが、これに東尾は「頭に来た」としており、「当時の阪急は乱数表を使って死球のサインがあったし、そんなチームの監督が何を言うか」と後に述べている。直後の阪急戦では内角を攻めることを一切せず外角一本で完投勝利を収めている[13]。, 1986年の日本シリーズ(広島との対戦)では、史上初めて8戦目までもつれた。東尾は第1戦に先発し、9回裏1死まで0点に抑えながら小早川毅彦、山本浩二に連続本塁打を浴びて同点とされ引き分けたが、西武は3連敗し広島に王手をかけられ、東尾は続く5戦目でも9回を投げ、自責点0のまま降板した。後を受けた工藤公康がサヨナラヒットを打って西武はやっと1勝目を挙げ、東尾に勝ち星は付かなかったものの、この1勝がきっかけで西武のシリーズ逆転劇へと繋がった。8戦目も東尾が先発登板するが、投手の金石昭人に2ラン本塁打を打たれて3回で降板。試合後、東尾は「もう握力がなくなっていた」と語っている。西武はこの後逆転し日本一となるが、当時36歳の東尾はこのシリーズで0勝ながら3試合、21イニングを投げている。この年のシーズンオフには、落合博満と共に日本プロ野球史上初の年俸1億円プレーヤーとなった。, 1987年は工藤と最優秀防御率のタイトルを最後まで争い、結果的に工藤が最優秀防御率のタイトルを獲得したが、後半戦に5連続完投勝利を含む9勝1敗という活躍ぶりが評価され、工藤とのMVP争いを制し、2度目のパ・リーグMVPに輝いた。だがシーズンオフに暴力団絡みの麻雀賭博容疑で書類送検され、球団から半年間の出場停止と減俸2,500万円の処分を受ける。記者会見で「全て私の不徳の致すところ。雀荘で(麻雀を)やるのは好きではなかった。メンツにヤクザがいると知っていたら加わらなかった、軽率だった」と謝罪した。だが本人は渡されていた原稿を朗読していただけで、「不徳」を「フタク」と読み上げてしまったところ隣席の関係者から強い口調で注意され訂正している。1987年シーズンの成績から翌年度は年俸の更なる増額が予想されていたが(事件発覚前には1億2,000万円の提示を保留した)、事件発覚により25%減額、最終的には年俸7,500万円で契約している。翌年6月21日で出場停止処分が解除された。, 引退後はテレビ朝日、文化放送、日刊スポーツの野球解説者・野球評論家を務め、タレントとしても活動した。, 石毛宏典が監督就任を固辞し、FAでダイエーに移籍した為[14]、東尾は球団からの要請を受け1995年に西武の監督に就任し、バッテリーコーチに大石友好、2軍投手コーチに加藤初を招聘した[15]。ドラフトでは西口文也、高木浩之、小関竜也などを獲得し、黄金期の主軸を担いメジャーリーグに復帰していたオレステス・デストラーデを西武に復帰させ、現役メジャーリーガーのダリン・ジャクソンを獲得するなどの補強を行った監督スタートだったが、優勝のオリックスに15連敗を含む5勝21敗と大きく負け越し、1年目は3位に終わった[16]。, 翌1996年には清原和博復活の為、清原の恩師でもある土井正博を打撃コーチに復帰させ[17]、広島から河田雄祐、中日から清水雅治と前原博之をトレードで獲得し、ドラフトでも高木大成・大友進・原井和也を獲得して戦力を整えて2年ぶりの優勝を目指したが、8月終了時点で借金12(47勝59敗4分=最下位)を経験するなど勝率は5割を切り、終盤に猛追を見せ辛うじてこの年も3位に終わった。, 同年シーズンでは、レギュラー捕手の伊東勤は92試合の出場にとどまり、「東尾修さんが監督になった95年のドラフトで西武は1位で高木大成を指名した。私が劣っているところは何もないと思っていたが、96年のシーズンに入るとよく先発から外された。コーチからは何の説明もない。こちらから聞くといつもお前を推してるんだけどと言われた。また怒りに火が付いた」と当時を振り返っている[18]。, 1997年、ヘッドコーチに須藤豊を招聘し、巨人にFA移籍した清原の後釜としてドミンゴ・マルティネスを、ドラフトで森慎二、和田一浩、玉野宏昌などを獲得した。清原の後任として4番に据わった鈴木健を主軸に、松井稼頭央や大友・高木大成をはじめとする新鋭が台頭し、また潮崎哲也、杉山賢人、佐々木誠らベテラン、移籍加入したデニー友利などの活躍し、伊東も前年の屈辱をバネに奮起した結果3年ぶりにリーグ制覇を成し遂げた。日本シリーズではヤクルトに1勝4敗で敗れた。, 同年7月10日の近鉄戦、9回表無死一、二塁の西武攻撃の場面で、奈良原浩が牽制でタッチアウトになり、そのジャッジに怒った奈良原は丹波幸一塁審に対して胸を突いたため退場となった[19]。東尾が抗議し、丹波塁審が抗議を受けなかった事に激怒し、胸を突き退場を宣告されたことで、蹴るなどの暴力行為を行い[19]、パ・リーグ関係者が仲裁に入る騒動になった[19]。翌日に3試合の出場停止、罰金10万円の処分を受けた[19]。丹波塁審は左下腿挫傷と診断され[19]、出場停止期間中の監督代行はヘッドコーチの須藤が務めた。, 1998年は日本ハムからトレードで西崎幸広を、またオリックスからFAで中嶋聡を獲得するなど戦力を補強し、前年の1997年まで森繁和1名体制だった1軍投手コーチを森・杉本正の2名体制にしたが、6月15日の時点でチーム防御率4・26と低迷し、同日2軍コーチの加藤初が1軍投手コーチに昇格し、森が2軍投手コーチに降格した[20]。この年大混戦となったパ・リーグの中で、リーグ2連覇を果たした。日本シリーズでは下馬評は西武が有利と予想されたが[21]、横浜に2勝4敗で敗れ2年連続日本シリーズ敗退となった。, 同年オフ、守備・走塁面に大きな難があったものの、2年連続で30本塁打を記録するなどチームの主砲として活躍していたマルティネスを「日本シリーズで勝つチームを目指すため」として解雇した。これは1997年と1998年の日本シリーズにおいて、DH制のないセ・リーグ本拠地では、守備に難があったマルティネスを起用できない(1997年に一塁手で起用したことはある)ことが影響して、いずれも日本一を逃していたためである(しかし、翌1999年に入団したアーキー・シアンフロッコ、グレッグ・ブロッサーらは全く打てず、結果的にリーグ優勝を逃した[22])。, 1999年は、黄金ルーキーとして入団した松坂大輔の活躍でダイエーと優勝争いを繰り広げ、9月中一度は0.5ゲーム差まで迫るも追い越すまでには至らず、マルティネス退団により低下した攻撃力もあって結局2位に終わり、リーグ3連覇は成らなかった。翌2000年もダイエーとの優勝争いに敗れて2位に終わり、2001年も近鉄、ダイエーとの優勝争いに敗れ、同年限りで監督を退任した。, 西武監督退任後はテレビ朝日(2010年まで)、文化放送、スポーツニッポンの野球解説者に復帰。また、2006年9月から2009年8月までバスケットボールプロリーグ・bjリーグの東京アパッチで球団社長を務めた。, 2012年10月10日に野球日本代表の投手総合コーチに就任した事が発表された[23]。11月13日に背番号が「78」となった事が発表された[24]。, 2019年、女子硬式野球クラブチーム「和歌山Regina」の名誉顧問に就任した[25]。, ロッテの木樽正明、成田文男らの投球フォームを参考に切れ味鋭いスライダーやシュートを軸にした内外角の横の揺さぶりと、打者の内角を突く強気の投球スタイル[26] を確立した。与死球数が多く、通算165個という日本記録を持っている[27](右打者に132個当てており、これは82%の割合である)。死球を与えても全く動じないふてぶてしい性格から「ケンカ投法」の異名も取った。, 東尾はこの攻撃的なスタイルについて、得意とするスライダーとシュートを最大限に活かすため、試行錯誤の末に編み出したとし、「僕だって本当はストレートで、格好良く真っ向勝負をしたかった。しかしプロで生き残るためには、ああいうスタイルでなければいけなかった」と語っている。西鉄のエースだった池永正明を目標としており、師匠だとも話している[28]。東尾は右打者にはぶつけるが左打者にはぶつけないというプライドがあったため、栗橋茂にぶつけた際には謝ったという[29]。, 全力で投じるストレートがプロでは二軍ですら通用しないことに愕然とし、「このままでは来年にはクビになると思い、秋のキャンプで変化球主体のスタイルの習得に取り組んだ」という。「高校時代は速球投手なんて呼ばれていたが、全盛期でも142、3キロくらいしか出ていない。通用しないことに早いうちに気付くことが出来て幸運だった」とも述懐している[30]。, 与死球が非常に多い(投球イニングとの比率では特別高いということはない)ことで知られたが、現役時代から本人は一貫して「故意に当てたことは1回も無い」と述べている。ただし「例外的なケース」と前置きを置いて、チームプレーの上での報復死球は与えたことがあると認めたことがある。チームメイトだった山本隆造がルーキーだった1978年のある試合で、山本が2本ヒットを打った後に死球を受けた時に「俺が仕返ししてやる」と思ってやったということをその例として挙げているが、当てる時は次の打者がデータ的に打力が無いとした時のみであると話している[31]。, 福本豊とは相性が悪く、特に球速の遅い変化球から多くの盗塁を許していた。当の福本に東尾の癖を直接教えてもらい一時は克服したが、またすぐに別の癖を福本に見抜かれた。福本は東尾の癖を「本塁へ早く投げたい気持ちが左肩に出ていた」と表現していた[32]。, 西鉄時代はチーム事情により、実力の伴わない若手時代から主戦投手としてシーズンを通して登板したため負けが多く、1年目である1969年から4年連続で負け越しており、実働20年の現役生活のうち9シーズンで負け越し、半分以上の14シーズンで2桁敗戦を喫した。リーグ最多敗戦投手となったシーズンが5回ある(最も多く負けたのは1972年の25敗[33]。)。また、通算200勝より先に通算200敗を達成しており(梶本隆夫に次いで史上2人目。)、200勝を達成した1984年のシーズン終了時点で通算201勝215敗と大きく負け越していた(ちなみに150勝した時点では170敗しており負け越し20)。しかし、翌1985年に17勝3敗という好成績で14の負け越しを一気に帳消し、その後の3シーズンを33勝29敗と勝ち越しで終えた結果、引退時には通算251勝247敗と無事勝ち越しを記録することとなり、現在200勝投手で通算成績が負け越しているのは梶本のみである。東尾は2018年現在、シーズン300イニング登板・20敗戦を記録した最後の投手でもある。, 愛称は「トンビ」(東尾の音読み)である。若いころから夜遊び好きであり、毎晩のように夜の街に繰り出していた。中川充四郎は東尾は登板前日は絶対にアルコールを口にしなかったと振り返っているが、[34]中尾ミエは登板前日も一緒に飲んだと語っている[35]。, 太平洋クラブ時代の1974年8月27日、日本ハムとのダブルヘッダー戦(神宮)に加藤初とともに先発が決まっていた(どちらが第1試合に投げるかは決まっていなかった)が、前夜その加藤とトランプに興じて完徹になってしまい、一睡もできないまま球場入りし、加藤に第1試合の先発を譲ったところ、2安打1失点で完投勝利を挙げてしまった。これに触発された東尾も省エネ投法で4安打2失点の完投勝ちを収めて「素晴らしい投球術だ」と当時の稲尾和久監督から絶賛された[36]。, 広瀬哲朗は著書『プロ野球オレだけが知ってるナイショ話』の中で、試合中に広瀬が東尾と対戦した際、カットしてファウルにし続けたところ、激高した東尾がマウンドから降りてきて「小僧、いつまでファウルにしとるんや。早く凡退せえ、コノヤロー!

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