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天皇賞(春 1997)

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1997年4月27日(日)3回京都4日. 古馬3強の物語:1997年天皇賞・春は最高のレース! 少し前のニュースになってしまいますが、2020年に入って間もなく、1996年の年度代表馬サクラローレルが死亡したと報道がありました。 サラ系5才上牡牝指定定量 ; 天候:晴 ; 芝:良 【本賞金】 1着:132,000,000円; 2着:53,000,000円; 3着:33,000,000円; 4着:20,000,000円; 5着:13,200,000円; レース詳細. 1997/ 4/27 5歳上OP (指) 定量 京都10R 芝3200m 右回り 良 第115回 天 皇 賞 (春).

1997年4月27日 第115回天皇賞・春: 馬柱をクリックすると別ウインドウで開き大きな馬柱を見ることができます。 ライバルに差を つけられた4歳時 3歳時、菊花賞・有馬記念を連勝、4歳初戦の阪神大賞典でナリタブライアンとマッチレースを演じたころには、そんな声は聞かれなかった。 しかし、4 10 R 第115回天皇賞(春)(G1) 芝右 外3200m / 天候 : 晴 / 芝 : 良 / 発走 : 15:40 過去の天皇賞(春) 1997年4月27日 3回京都4日目 4歳以上オープン 牡・牝(指)(定量) 天皇賞(春) ・ レース映像は、gⅠ開催日の18時頃に掲載いたします。 ・ 1984年以降のgⅠレースの映像となります。 天皇賞(春) 表はスクロールすることができます. 着 枠 馬番 馬名 性齢 騎手 斤量 タイム 着差 通過順位 上3f スピード 指数 人 … (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 1996年の天皇賞・秋(G I)は、前哨戦のオールカマー(G II)を快勝したサクラローレルが1番人気、破竹の6連勝のマーベラスサンデーが2番人気、オールカマーではまさかの大敗を喫した気分屋マヤノトップガンは4番人気となりました。, 3強に割って入り3番人気となったのは、4歳馬バブルガムフェロー。バブルガムフェローもクラシックを期待されながら怪我に泣き、距離適性を考慮されて、クラシックの菊花賞よりも古馬との対決となる天皇賞を選択したという非常にユニークな馬でした。, 結果は、まさかの1着バブルガムフェロー、2着マヤノトップガン、3着サクラローレル、4着マーベラスサンデー。, サクラローレルは直線で馬群に閉じ込められて本来の力が発揮できず、そしてサクラローレルをピッタリとマークしていたマーベラスサンデーもサクラローレルと心中という、やや後味の悪いものとなりました。, そして4歳馬にして初めて天皇賞を制したバブルガムフェローでしたが、次のジャパンカップ(G I)では人気に反して大敗。しかし、その後もしぶとく3強のドラマに絡んでくることとなります。, そして迎えた1996年総決算の有馬記念(G I)。一年前と比べて勢力図が一気に塗り替わった1996年を振り返る、感慨深いレースとなったのを覚えています。, 1番人気はサクラローレル、2番人気はマヤノトップガン、3番人気がマーベラスサンデー。3強が人気を分け合う、まさに第2ラウンドに相応しい戦いとなりました。, 結果的には、このレースはサクラローレルの強さばかりが目立つレースとなりました。最後の直線ではマーベラスサンデーが先行し、マヤノトップガンはまた失速。途中、サクラローレルがマーベラスサンデーを捉えると、そのまま突き放していくという強い勝ち方になりました。, マヤノトップガンは前哨戦の阪神大賞典(G II)を、なんと最後方からの追い込みで快勝しました。, そして、フランスの凱旋門賞を目指すサクラローレルは、ぶっつけでの天皇賞春への挑戦となりました。, 舞台は再び淀の京都競馬場。1番人気は1996年の年度代表馬にして、前年の天皇賞春も勝利しているサクラローレル、2番人気は1995年の年度代表馬にして前哨戦快勝のマヤノトップガン、そして3番人気が悲願のGI制覇を目指す脅威の連帯率83%の優等生マーベラスサンデーとなりました。, このレースは、絶対、動画で見てください。できれば関西TVの杉本清アナウンサーの実況付きのものが素晴らしいです。「1997年 天皇賞春 動画」です。, 文章にすると臨場感が半減いたしますので、是非動画をご覧になってください。今見ても痺れる戦いです。, かかり気味に前を潰しに行くサクラローレル、それをピッタリとマークするマーベラスサンデー、そして少し遅れて大外に持ち出すマヤノトップガンという状態で、最後の直線を向きます。, 悲願のGI勝利かと思われたのもつかの間、恐るべき底力で内から差し返すサクラローレル。, 二頭の叩き合いかと思ったところ、大外からもの凄い勢いで突っ込んでくるマヤノトップガン。, 結局、1着マヤノトップガン、2着サクラローレル、3着マーベラスサンデーで決着いたしました。3分14秒4は当時の芝3200mの世界レコードという、驚愕の結果でした。, 強いのか弱いのかイマイチ分からない気ムラなマヤノトップガンは、最後に最高のレースをして真の強さを見せつけました。, また、内がサクラローレル、中がマーベラスサンデー、外がマヤノトップガンというのも絶妙で、ショー的な観点からも、3頭の争いが際立って見える配列だったと思います。, そして、古馬3強の戦いはこのラウンド3が最後となってしまいます。超高速勝負が負担となってしまったのか、マヤノトップガンはこれで引退。凱旋門賞を目指して欧州へ渡ったサクラローレルも、前哨戦で怪我をしてそのまま引退となりました。欧州の馬場が合いそうなサクラローレル、もしも万全の状態で凱旋門賞に出場していたら、かなりいい勝負をしたかも知れません。, 3頭の戦いは終わりましたが、3強の物語はまだまだ続きます。3強最後の一角マーベラスサンデーの晩年の活躍こそ、この古馬3強の物語を更に格上げするに相応しいものだからです。, 夏の宝塚記念(GI)で、マーベラスサンデーは昨年の秋の天皇賞で苦杯を飲んだバブルガムフェローを完封して、悲願のGI制覇を達成します。, 武豊騎手が「やっとGIを勝たせてあげることができました」とインタビューで答えていたのを覚えています。能力を期待されながらクラシックに出場することができず、古馬になってからは強豪に勝利を阻まれてきたことに思いもあったのでしょう。, そして、マヤノトップガン、サクラローレル亡き後、昨年天皇賞で敗北させられたバブルガムフェローにライバルたちの分まできっちり借りを返した勝利でもありました。, 3強の物語を主軸に据えたとき、1997年の天皇賞・秋は「サイドストーリー」となるのですが、このレースで主役を張った馬たちにとってはもちろん「メインストーリー」。, このレースの主役は、宝塚記念2着の後、毎日王冠(GII)を勝利したバブルガムフェローと、前年のオークスを制した牝馬エアグルーヴでした。いずれの馬たちにとっても、彼らが主人公の物語を書くとするならば、このレースはベストレースの一つに入るでしょう。, 東京競馬場の長い直線でのバブルガムフェローとエアグルーヴの壮絶なたたき合い。当時は牝馬(メス)が牡馬(オス)と対等以上に戦うことは珍しかったことを思えば、まさにエアグルーヴの生涯最高のレースと言えるでしょう。, 激戦をわずかに制したのは、エアグルーヴ。前年の優勝馬バブルガムフェローを倒しての勝利で、「女帝」として今後GI戦線に君臨するきっかけとなったのです。, ちなみにこのレースで大逃げを打ったのは、1998年に「伝説的な逃げ馬」としての名声を獲得していくサイレンススズカでしたが、それはまた別の物語・・・, 凱旋門賞はフランスのパリで行われる世界最高峰のレースであるが、三強の物語の完結に向けて遠回しに関連してくるところが、1997年戦線の面白いところだと思います。, 日本馬の参加なく行われたレースは、仏ダービーを勝利したパントレセレブルが1着、2着は前年も2着だった強豪ピルサドスキーという結果になりました。, パントレセレブル、ピルサドスキーともに2400mでの勝利はありますが、血統的には短距離系であったことを考慮すれば、本格派ステイヤーのサクラローレルにも勝機があったのではないかと思います。, 次なるサイドストーリーの舞台は、東京競馬場で行われる国際レース・ジャパンカップ(GI)。, 天皇賞・秋で激闘を演じたバブルガムフェロー(1番人気)とエアグルーヴ(2番人気)の再戦が話題となります。そこに割って入るのが、凱旋門賞2着の海外の強豪ピルサドスキー(3番人気)。, 前戦で激闘を制した「恐るべき牝馬」エアグルーヴが2番人気というのは、前回の勝利をまだまだラッキーパンチだと思う一定数のファンがいたということを物語っています。, しかし、ふたを開けてみると、勝利したのはピルサドスキー。それに食い下がる底力を示したのがエアグルーヴ、少し離れた3着がバブルガムフェローという結果でした。, 海外の強豪相手にも引けを取らず互角に戦うエアグルーヴの姿は、まさに女帝としての名に相応しいものでした。, 古馬3強にスポットを当てた物語ですので、どうしてもサイドストーリー扱いになってしまうのですが、1997年天皇賞秋、そしてジャパンカップもかなりの名勝負なのだと思います。, 春に激闘を演じた古馬三強も、サクラローレル、マヤノトップガンが引退し、残るマーベラスサンデーも長期休養と寂寥の感を禁じえぬ秋戦線を盛り上げたのは、間違いなくエアグルーヴとバブルガムフェローの2頭の5歳馬でした。, ここで、秋戦線エアグルーヴとともに戦ってきた武豊騎手は、エアグルーヴではなくマーベラスサンデーを選択しました。武豊騎手が、能力的にマーベラスを上を判断したのか、クラシックを戦えなかった無念を果たそうとしたのかは分かりませんが、この選択によりマーベラスサンデーはデビューから最後の戦いまで一貫して武豊騎手が騎乗したということになります。, 宝塚記念(GI)を勝利しているマーベラスサンデー、有馬記念を勝利すれば間違いなく年度代表馬に選ばれるでしょう。1995年年度代表馬マヤノトップガン、1996年年度代表馬サクラローレル、そして1997年年度代表馬マーベラスサンデーとなって3強の物語は幕を閉じる。当時、そのように考えていたことを懐かしく思い出します。, そして、第4コーナーを回って最後の直線に入ってしばらくの間、その筋書きは現実のものにあると思っていました。, エアグルーヴも強いレースをするものの、それを力でねじ伏せて先頭に立つマーベラスサンデー。, そう思ったのもつかの間、荒れた馬場をついて4歳馬シルクジャスティスが強襲、そのまま突き抜けて勝利します。菊花賞では1番人気になったほどの実力馬でしたが、菊花賞、ジャパンカップと良いところなく有馬記念に参戦していたこともあり、完全に「伏兵」でした。, 武豊騎手が、マーベラスサンデーは最後に力を抜いてしまうところがある、と言っていましたが、まさに不意を突かれての敗北でした。ですが、負けてなお強い内容。有馬記念は2年連続での2着と、底力を見せつけました。, マーベラスサンデーは、1997年秋戦線を盛り上げたバブルガムフェロー、エアグルーヴという2頭の強豪に、宝塚記念、有馬記念でそれぞれ勝利したのです。これは、「古馬三強」の格を上げるラストストーリーだと思います。そして、不意を突かれなければサクラローレルやマヤノトップガン以外には負けないという矜持を示したものだとも思います。, そういった地味だが健気な強さに心打たれて、マーベラスサンデー号のぬいぐるみを購入したのも懐かしい思い出。, 1997年の年度代表馬は、マーベラスサンデーが負かしたエアグルーヴに決定しました。有馬は3着でしたが、牝馬として牡馬に対等に張り合った実績は、素晴らしいものだと思います。, 年が明けてまた屈腱炎を発症したマーベラスサンデーはそのまま引退となりました。種牡馬としては、重賞ウイナーを何頭か輩出し、中山大障害(GI)勝利馬を2頭出したこともあり、サクラローレルやマヤノトップガンよりも成功したといえるかもしれません(シルクフェイマスは天皇賞春・有馬記念3着、宝塚記念2着もあり!)。, サクラローレルの死のニュースから、このぬいぐるみが再び陽の目を見ることになって良かった。, サクラローレル、マヤノトップガン、そしてマーベラスサンデーともに遅咲きの名馬で、それぞれ個性的な味があっていい組み合わせだったと思います。, そして、ナリタブライアンから3強を経てエアグルーヴへとタスキが繋がれていく物語が、最高にドラマチックではないでしょうか。, 単に、懐古厨なのかも知れません(笑)。けれども、この後に続くグラスワンダーやエルコンドルパサーの世代までのシーケンスが、個人的には競馬をとても面白く見れた時代だったと思います。これ、映画化できるほどドラマチックな物語じゃないですか??. 少し前のニュースになってしまいますが、2020年に入って間もなく、1996年の年度代表馬サクラローレルが死亡したと報道がありました。, ディープインパクト前後の時代から競馬は全く見なくなってしまったので、最近のことは良くわからないのですが、サクラローレルを筆頭とする、かつて「古馬3強」と呼ばれた馬たちには少々思い入れがあります。, ということで、普段は大阪の街の発展を記録している当ブログの趣旨とは異なるのですが、本日は競馬の話題を少々させてください。, 競馬に興味がない方も、なるべく面白く読んでもらえるように、少々物語仕立てにしてみましたので、お付き合いください。, 「古馬3強」とは、1996年~1997年ごろに活躍したサクラローレル、マヤノトップガン、マーベラスサンデーの三頭です。, ・サクラローレル  1996年年度代表馬  GI 2勝(天皇賞春、有馬記念)   2020年死亡, ・マヤノトップガン 1995年年度代表馬 GI 4勝(菊花賞、有馬記念、宝塚記念、天皇賞春) 2019年死亡, いずれも足元が弱く、クラシックでは十分に活躍できませんでしたが、古馬になって大成した馬たちです。, ・ナリタブライアン  1994年年度代表馬 GI 5勝(朝日杯、皐月賞、日本ダービー、菊花賞、有馬記念)  1998年死亡, ・エアグルーヴ 1997年年度代表馬 G1 2勝(オークス、天皇賞秋) 2013年死亡, ※馬の年齢表記は、当時のものとなっています。2020年現在は1歳マイナスした年齢表記です。, スポーツのような筋書きのないドラマでは、結果から振り返ってみたら過去の勝負にも重大な意味があったということがしばしばあります。, 古馬3強の物語の最高潮のドラマが待っているのは、1997年春の天皇賞ですが、その物語は1994年から始まっていたと思います。, 1994年の競馬界の話題をさらったのは、皇帝・シンボリルドルフ以来のクラシック三冠を達成したナリタブライアンでした。シャドーロールの怪物と呼ばれたナリタブライアンは、クラシック三冠に引き続いて有馬記念も快勝し、1994年の年度代表馬に選出されます。, 後に古馬三強の最強馬となるサクラローレルは、ナリタブライアンと同世代です。しかし、光輝くナリタブライアンに対し、サクラローレルは怪我で一度もクラシックに出場することは叶いませんでした。当時は全くの無名馬だったのです。, そして、ナリタブライアンのひとつ下の世代のクラシック戦線は低調でした。秋の菊花賞では、牝馬(メス)のダンスパートナーが一番人気になる始末・・・, マヤノトップガンは、そのまま古馬との対決となる有馬記念にも出走し、あれよあれよという間に逃げ切ってGI2勝の成績を上げます。, こうして、マヤノトップガンは1995年の年度代表馬に選出されますが、正直なところ不意打ちで勝ったという印象が強く、実績のわりに実力は評価されていませんでした。, 一方、ナリタブライアンは秋に復活しますが、天皇賞・秋、ジャパンカップ、有馬記念と不本意な成績で1995年を終わります。, また、未だ無名であったサクラローレルは1月の中山金杯(GIII)を快勝するものの、その後また骨折。一時は安楽死処分も検討されるほどの状態となりますが、どうにか1996年へ向けて調整を続けました。, この3強の物語において、最高にドラマチックなレースとなるのは1997年・天皇賞春ですが、それ以外に見るべきレースを一つ挙げるとするならば、この1996年・阪神大賞典(G II)を除いて他にないでしょう。, レースのグレードはG II ながら、1994年の年度代表馬ナリタブライアンと、1995年の年度代表馬マヤノトップガンの出走が話題となりました。, 復帰後やや精彩を欠く三冠馬ナリタブライアンと、強いのか強くないのか良くわからないマヤノトップガンの対決、ネームバリューは問題なくとも、やや微妙な空気が流れるビッグネームの対決となりました。, しかし、1996年阪神大賞典は競馬史上でも屈指のレースと謳われる、素晴らしいレースとなりました。競馬を見たことがない人にも、是非見てもらいたいレースです。当ブログから動画へのリンクは行いませんが、「1996年 阪神大賞典 動画」のキーワードで検索して、是非一度ご覧になってください。, 競馬はもちろん2頭で行うものではありませんが、ラスト400mは他の馬たちを置き去りにするナリタブライアンとマヤノトップガン、2頭の年度代表馬によるマッチレースとなりました。, 壮絶な叩き合いの末、最後の最後にナリタブライアンがアタマ差マヤノトップガンを抑えて、1年ぶりの勝利を挙げました。, 精彩を欠いていた三冠馬ナリタブライアンの復活にファンは沸き、またその強さにイマイチ疑問符のあったマヤノトップガンもその強さを証明した形となりました。, 競馬に限ったことではありませんが、私は、勝った者が評価されるだけでなく、負けた者の評価も上がる勝負こそが、名勝負の条件の一つと考えます。, そういう意味では、1996年阪神大賞典は、そのレース内容と相まってまさに稀にみる名勝負であったのだと思います。, そしてこの阪神大賞典が、古馬三強の物語の本当の意味においてのプロローグとなります。, 前戦で壮絶な勝負を演じたナリタブライアンVSマヤノトップガンの再度の対決が話題となります。, しかし、虎視眈々と王座を狙うもう一頭の馬がいました。ナリタブライアンの同期ながら、当時まだほぼ無名であったサクラローレルです。, サクラローレルは生死を彷徨う壮絶な怪我から復活し、中山記念(G II)を勝利、いよいよ古馬一線級に戦いを挑むときとなりました。, 当時、そんな視点でこのレースを見ていた者は、ほとんどいなかったでしょう。人の予想した筋書きをあっさりと超えていく所にこそ、本当のドラマがあります。, レースはナリタブライアンとマヤノトップガンを中心に進行します。そして、まるで阪神大賞典の再現のように、二頭が先頭で最終コーナーを回ります。この瞬間、ほとんどの人が、阪神大賞典に続く二頭の壮絶な勝負を予想したことでしょう。, そのままナリタブライアン勝利かと思ったのも一瞬、サクラローレルがナリタブライアンを捉え、末脚を伸ばしてナリタブライアンを更に突き放して勝利します。, ノーマークであった利はあるとはいえ、二強を完全に突き放していく強い勝ち方は、新しいチャンピオンの誕生を予感させました。, ナリタブライアンの同世代でありながら、何度も怪我に泣いてきた強豪が、「大器晩成型」としてトップへ駆け上がった瞬間でした。, ナリタブライアンはその後、本来の適正距離より短い高松宮記念(GI)に参戦し4着。その後、引退となります。3200m → 1200mの距離が違いすぎる激闘が、負担となったのかも知れません。一つの時代の終焉です。, また、1997年にこの物語に絡んでくるエアグルーヴは、優駿牝馬・オークス(GI)を勝利して同世代女王となります。, そしてこの時期、破竹の勢いで勝ち進む一頭の馬がおりました。古馬3強最後の一角、マーベラスサンデーです。, マーベラスサンデーはマヤノトップガンの同期ですが、やはり怪我に泣きクラシックを棒に振りました。, しかし、新馬のときに調教で古馬オースミタイクーンをぶっち切るという驚愕の能力を見せ、クラシックも期待されて主戦騎手が武豊に決まっていました。武豊は、今でこそ以前の勢いに陰りがみられるものの、当時は天才の名を欲しいままにしていました。, 歴史にifはないというのは陳腐な表現ですが、1995年のクラシック戦線は低調であったこともあり、もしもマーベラスサンデーが参戦していたら、皐月賞や日本ダービー勝利のチャンスはあったのではと思います。マーベラスサンデーは天才・武豊がデビューから引退まで一貫して乗り続けた数少ない馬の一頭ですが、もしかしたらクラシック勝利のチャンスを逃したことに対しての思い入れが武豊騎手にあったのかも知れません。, 一年の休養から明けたマーベラスサンデーは、これまでの鬱憤を晴らすかのように勝ちまくり、エプソムC(G III)、札幌記念(G III)、朝日チャレンジC(G III)、京都大賞典(G II)と重賞4勝を含む6連勝を飾ります。, 当時、「この夏最大の上り馬」と評されていたのを覚えていますが、何のこともない、もともとクラシックも期待された逸材が復活しただけの話です。. 天候: 馬場: 良 はウマニティ会員専用のコンテンツです。 マークは会員登録(無料)するだけでご覧頂けます。 特別登録. 1997年4月27日( 日 ) 3回京都4日目15:40発走.

出馬表. 天皇賞(てんのうしょう)は、日本中央競馬会(JRA)が春・秋に年2回施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。第1回とされる「帝室御賞典」は1937年(昭和12年)に行われているが、JRAが前身としている「The Emperor's Cup(エンペラーズカップ)」までさかのぼると1905年(明治38年)に起源を持ち[1]、日本で施行される競馬の競走では最高の格付けとなるGIの中でも、長い歴史と伝統を持つ競走である[1]。現在は賞金のほか、優勝賞品として皇室から楯が下賜されており、天皇賞を「盾」と通称することもある[2][3]。, 春は京都競馬場で「天皇賞(春)」(通称:春天)、秋は東京競馬場で「天皇賞(秋)」(通称:秋天)の表記で施行されている。記事内ではそれぞれ「天皇賞(春)」または「春の競走」、「天皇賞(秋)」または「秋の競走」と表記する。, 天皇賞のルーツをたどると、1905年(明治38年)5月6日に横浜競馬場で創設されたThe Emperor's Cup(エンペラーズカップ[注 1])や、明治初期のMikado's Vaseにまでさかのぼることができる[4][5]。これらの競走が誕生した背景には、当時の日本が直面していた外交問題が強く影響している(後述)。エンペラーズカップはのちに「帝室御賞典」の名称で定着し、明治末期から1937年(昭和12年)まで日本各地で年に10回行われていた[4]。, 一方、施行距離や競走条件は1911年(明治44年)から1937年(昭和12年)まで行われていた「優勝内国産馬連合競走」をおおむね継承している。この競走は年2回、3,200メートルの距離で行われ、各馬等しい条件で日本のチャンピオンを決め、日本一の賞金を与える競走だった。, これらを統合して始まったのが1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典で、日本中央競馬会(JRA)ではこれを天皇賞の第1回としている[1]。「帝室御賞典」は戦局悪化のため1944年(昭和19年)秋に中止され、終戦後の1947年(昭和22年)春に「平和賞」の名称で再開、同年秋から「天皇賞」と改称され現在に至っている[1]。, 1937年(昭和12年)以来「古馬の最高峰」として位置づけられた天皇賞は長らく番組体系の中心に据えられ、旧八大競走にも含まれるなど、その地位を保ち続けた[6]。1着賞金も東京優駿(日本ダービー)などとともに国内最高クラスの競走[注 2]だった。のちに有馬記念やジャパンカップが創設され、やがて国内最高賞金はジャパンカップが上回るものの、2020年現在も天皇賞は、ジャパンカップ、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念に次ぐ高額賞金競走である[7]。, 1980年代以降に進められたさまざまな制度改革、賞金や競走条件の変遷を経てもなお、天皇賞は日本国内で現存する競馬の競走としてもっとも長い歴史と伝統を持ち、重要な競走のひとつに位置づけられている。, 王政復古後、明治新政府が直面した重要な外交問題のひとつは、欧米を中心とする諸外国との間に結ばれた不平等条約の改正であった。条約改正交渉を円滑に進めたい明治政府は、鹿鳴館に象徴されるように、西洋文化を積極的に採用した。競馬もそのうちのひとつで、政府や明治天皇は明治初期から西洋式の競馬を行うなど、競馬場は重要な外交の舞台だった[12]。中でも横浜競馬場は幕末以来、外国人が設立・運営しており、競馬会の会頭も歴代のイギリス公使が務めていた[注 3]。明治天皇は条約改正を実現するため、日本の外交官や外務担当の政治家を伴い、頻繁に横浜競馬場へ赴いていた[12][14][注 4]。, イギリスでは清教徒革命後の王政復古に際して[16]、国王自ら競馬場に大競走(King's Plate、女王時代はQueen's Plate)を創設し[16][17]、豪華な賞品を下賜した故事があり、これはイギリス王室の伝統のひとつだった[17][18]。明治天皇はこの故事に倣い[18]、横浜競馬場へ豪華な賞品(花器)を下賜した。これが1880年(明治13年)創設のMikado's Vaseである[4][注 5]。, 明治30年代になると、イギリスとの条約改正を皮切りに、不平等条約の改正が実現した。イギリスとの間には日英同盟も締結され、日露戦争の後ろ盾となった。その日露戦争で日本の軍馬の質や数が大幅に劣っていることが露呈すると、軍部は日英同盟を頼って優秀な軍馬の大量輸入を依頼した。これに応えたイギリスは、イギリス連邦で日本に近く、かつ馬産地だったオーストラリアから3,700頭あまりの馬(豪サラと呼ばれる)を日本へ緊急輸出した[20]。, こうした一連のイギリスとの外交交渉で大きな役割を担ったのが、イギリス公使のクロード・マクドナルドである[5]。マクドナルドは当初公使だったが、1905年(明治38年)に全権大使へ昇任した。マクドナルドと個人的な信頼関係を結んでいた明治天皇は昇任にあたり、マクドナルドへ「菊花御紋付銀製花盛器」を贈呈した[21][5]。当時、マクドナルドは横浜競馬場の会頭も兼任しており、明治天皇から贈られた盃(当時は『尊重の重宝』と和訳している)を賞品として、1905年(明治38年)5月6日に「The Emperor's Cup(エンペラーズカップ)」を創設した[1][21][20][22]。以来、横浜競馬場では毎年この競走に際して明治天皇から賞品が下賜されるようになった。これがのちに日本語で「帝室御賞典」などと訳されるようになり[4][20][5][21][22]、JRAでは「天皇賞の前身」としている[1]。, 横浜競馬場は外国人が運営し、書類や記録もすべて英語表記だったため、“The Emperor's Cup” はときの担当者によってさまざまに和訳されていた。1905年(明治38年)には「皇帝陛下御賞盃」[注 6]、1906年(明治39年)には「宮中御賞盃」と訳され[4]、1907年(明治40年)からは新聞報道でも使われた「帝室御賞典」の訳で統一されるようになった(後述)[4][21]。, 明治天皇は1899年(明治32年)まで盛んに競馬場へ巡幸したが、同年に不平等条約改正が実現すると、以後は一切競馬場へ赴かなくなり[24][14]、代わりに皇族や親王を名代として派遣するに留まっていた[25]。これ以来、天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)は2005年(平成17年)の第132回天皇賞(秋)まで106年間行われなかった(後述)。, 1906年(明治39年)に日本人による本格的な競馬倶楽部として東京競馬会が創設された[25]際、責任者だった子爵の加納久宜は明治天皇の臨席と賞品の下賜を打診した。しかし開催10日前になって、賞品の下賜は許されたものの、明治天皇の巡幸は却下された[26][25]。このとき行われた「皇室賞典」競走が当時の新聞によって「帝室御賞典」と報じられ、以後はこの名称で定着した[4][25]。, 明治天皇から賞品を下賜されて行う帝室御賞典は、すぐに全国の競馬倶楽部へ広まった[4][27]。横浜・東京に続いて阪神へも年2回の下賜が認められ[4][27]、馬産地の福島・札幌・函館・小倉へも年1回の下賜が認められた[4][27]。, 全国各地で年に10回行われるようになった「帝室御賞典」は、各競馬倶楽部が独自の競走条件で施行していたため、施行距離も斤量(負担重量)などの条件もまちまち[22]で、競走名と天皇から御賞典が下賜される点以外に統一性はなかった[28]。, 一方、1911年(明治44年)に日本一の競走馬を決定する競走として、「優勝内国産馬連合競走(通称:連合二哩)」が帝室御賞典とは別に創設された[29]。賞金は1着3,000円、2着でも1,500円で、当時日本国内の最高賞金レースだった(当時、帝室御賞典の1着馬には賞品が授与されるだけで、賞金はなかった)。距離は2マイル(約3,200メートル)、条件は馬齢重量で、出走できるのは各地の競馬倶楽部で行われた優勝戦の上位馬に限られていた[29]。優勝内国産馬連合競走は当初年1回の施行だったが、のちに年2回施行になった[29]。, 昭和に入り戦時体制化が進むと、各地の競馬倶楽部は1936年(昭和11年)に発足した日本競馬会に統合され、一本化されることになった[4][29][1]。日本競馬会は1937年(昭和12年)に各地の競馬倶楽部を統合し、年10回施行していた帝室御賞典は春に阪神競馬場(旧・鳴尾競馬場)、秋に東京競馬場で年2回施行することとなった[1][4][29]。年2回施行に改められてから初の競走は1937年(昭和12年)秋に東京で行われた帝室御賞典で、JRAではこれを天皇賞の第1回としている[1][4][29]。競走の名称は「帝室御賞典」が採用され、競走の中身は「優勝内国産馬連合競走」が継承された。つまり、天皇(皇室)から御賞典が下賜される点は「帝室御賞典」を受け継いでおり、距離や競走条件などは「優勝内国産馬連合競走」から継承している。これが、現在の天皇賞である[29]。また、帝室御賞典は古馬にとって最高峰の競走として位置づけられ、東京優駿(日本ダービー)など4歳馬[注 7]の競走とは明確に線引きされた[1][4][29][22]。, こうして「統一」された新しい帝室御賞典は、競走馬として日本一を決めるだけでなく、将来の種牡馬を選別するための最高の能力検査でもあった[30]。また、天皇を頂点とした旧帝国憲法下の日本において、天皇からの賞典を受けることは平民(馬主)や農民(畜産家)にとっても生涯の名誉となった[31][22]。, 日中戦争から太平洋戦争にいたる戦時中も、帝室御賞典は下賜賞品を木製楯に代えながら続けられた(後述)。しかし、やがて戦局が悪化すると馬主にも多くの戦死者が出るようになり、競走馬の所有権問題が浮上した[32]。日本競馬会は全競走馬を買い上げることでこの問題を解決したが、全競走馬を買い上げたため「賞金や賞品を争う」という競馬の性格を維持できなくなった。さらに、1944年(昭和19年)春には軍部の命令により馬券(勝馬投票券)の発売を伴う競馬が禁止されたため、日本競馬会は農商省賞典四歳(現・皐月賞)や東京優駿(日本ダービー)などの主要な大レースに限って、「能力検定競走」として競馬を行った[32]。帝室御賞典も1944年(昭和19年)春は施行場を京都競馬場に移し、皇室からの賞品下賜も辞退[32]したうえで「能力検定競走」として非公開で行われた[1]が、同年秋は中止され、帝室御賞典は中断することとなった。その後、1945年(昭和20年)には戦争の激化により、能力検定競走も行われなくなった[33]。, 終戦後、競馬は1946年(昭和21年)秋に再開された[34]。帝室御賞典は1947年(昭和22年)春からの再開を決め、日本競馬会は皇室へ賞品の下賜を打診した。しかし、この時点では連合国軍総司令部(GHQ)による皇室への処分などが確定していなかったため、下賜は時期尚早として見送られた[34]。すでに御賞典競走を開催する前提で番組編成をしていた日本競馬会は急遽、競走名を「平和賞」に変更して施行した[34][4]。, 1947年(昭和22年)秋に予定していた「第2回平和賞」の前日に皇室から賞品(楯)の下賜が再開されることが決定し、名称を「天皇賞」に改めて施行された[35][4]。「天皇賞」の名称で行われるのはこれが初めてとなるが、公式な施行回数は1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典にさかのぼり、「第16回天皇賞」とされた[4][注 8]。その後、天皇賞の施行主体も日本競馬会から国営競馬(農林省競馬部)を経て、1954年(昭和29年)より日本中央競馬会が引き継いだ[36]。, 現在は1944年(昭和19年)春の帝室御賞典(能力検定競走)と1947年(昭和22年)の平和賞も公式な施行回数に含まれており、能力検定競走は「第14回天皇賞」、平和賞は「第15回天皇賞」と同義に扱われている。その一方で、これらの競走では皇室から賞品が下賜されていないため、天皇賞の施行回数から除外する考え方もある[37]。1968年(昭和43年)に日本中央競馬会が編纂した史料では、能力検定競走や平和賞を回数に数えない考え方が示されている[35]。, 再編され年2回施行となった帝室御賞典の時代から、天皇賞は古馬にとって最高峰の競走と位置づけられていた[4]。当時の競走体系では、勝てば勝つほどより重い斤量を負担することになっており[38]、定量で出走できる天皇賞を勝つと、以後は出走すればおおむね負担重量が60キロ後半から70キロ後半にまで跳ね上がった(現在中央競馬の平地競走では、60キロ以上の負担重量で出走する例がきわめて少なくなっている)。よって、馬にかかる負担を考慮すれば出走可能な競走は大きく限定されることになった。また帝室御賞典・天皇賞には1980年(昭和55年)まで「勝ち抜き制」があり、一度天皇賞(帝室御賞典)を勝った馬は、以降の天皇賞(帝室御賞典)に出走することができなかった[38]。これは当時、天皇賞(帝室御賞典)を勝った馬が再度出走して敗れるようなことがあれば、優勝馬の威厳を下げてしまうとされた[39]考え方に基づいており、天皇賞(帝室御賞典)を勝つほどの優れた競走馬は、優勝馬としての威厳を保ちつつ早く種牡馬になって競走馬の改良に貢献することが求められていた[38][注 9]。, 多くの古馬にとって、天皇賞優勝は最大の目標であると同時に、一度優勝するとその後の目標となるレースがほとんどなくなる[注 10]。そのうえ、斤量もさらに増えることから、優勝後に引退する馬は少なくなかった。1937年(昭和12年、第1回)から1955年(昭和30年、第32回)までの優勝馬のうち5頭が優勝と同時に、10頭が優勝したシーズン限りで引退している。このほか、3頭が優勝後に地方競馬へ転出した。, 1956年(昭和31年)、年末の中山競馬場で中山グランプリ(現・有馬記念)が創設された[注 11]。これは4歳馬も古馬も分け隔てなく、その年の一流馬を集めて行う競走となった[40]。, 天皇賞を勝った古馬の一流馬にとって、有馬記念は新たな目標となった[40]。有馬記念創設から2013年(平成25年)までの天皇賞優勝馬で、天皇賞優勝を最後に引退した馬は5頭しかいない。, 一方、天皇賞を優勝して国内の最高峰に立った馬の一部は、新たな目標を求めて海外へ遠征するようになった[41]。1952年(昭和27年)にアメリカで創設された「ワシントンDC国際」がその代表格である[42][43]。この競走は招待制で、日本からは天皇賞の優勝馬が招待を受けるようになった[41]。ワシントンDC国際は11月に行われ、当時は11月下旬に行われていた天皇賞(秋)と同時期になる。当時、一度天皇賞を勝った馬は再出走が認められていなかった(勝ち抜き制)ため、秋にワシントンDC国際に挑み、12月に帰国して有馬記念へ出走する馬も現れた[41]。, 有馬記念創設以降、1981年(昭和56年)までの25年間で、天皇賞に勝った後海外遠征を行った馬は7頭いる。そのうち5頭は秋にワシントンDC国際へ、1頭は同時期のヨーロッパで凱旋門賞に挑んだ[43]。しかしこれらの中から目標を達することができた馬はおらず、逆に欧米との力量差を突きつけられる結果になった[43]。, 天皇賞を勝つほどの一流馬が、日本以外の国でまったく勝てないという事実は、日本国内に2つの相反する考え方をもたらした[44]。1つは強力な外国の競走馬が日本へ入ってくることで国内の馬産が衰退するという脅威論、もう1つはより強い外国馬との対戦によって日本馬のレベルアップを図ろうとする門戸開放論だった[44]。, 1970年代後半より「世界に通用する強い馬作り」が提唱され、実現したのが1981年(昭和56年)に創設されたジャパンカップである[44]。ジャパンカップは外国から競走馬を招待し、日本の一流馬と対戦させることで、日本競馬に活力を与えようという意図で企画された[45]。, 帝室御賞典が1937年(昭和12年)秋から年2回施行とされて以来、伝統的に11月下旬の施行が定着していた天皇賞(秋)は、ジャパンカップに時期を譲り10月に前倒しされた[6]。「ワシントンDC国際」に出走した外国馬がジャパンカップへ転戦しやすいように配慮した結果である。ジャパンカップは新設競走にして賞金額が東京優駿(日本ダービー)や天皇賞、有馬記念と並ぶ高額に設定され、これは古馬の競走体系が根幹から変わることを意味した[46]。第1回ジャパンカップでは、直前の天皇賞(秋)をレコード勝ちした馬など当時の中央競馬を代表する陣容で臨んだ日本勢が外国勢の前に総崩れとなり、日本の競馬界に衝撃を与える結果となった。また、ジャパンカップの商業的な成功は日本のみならず、アジアの競馬にも変革をもたらすきっかけとなった[47]。, ジャパンカップの創設以前より、世界の各国からは外国籍の馬主が日本のレースに所有馬を出走させられなかったり、外国馬に対する出走制限を設けていたりしたことなど、日本の競馬界に対する閉鎖性が指摘されるようになっていた。これらの指摘を受け、日本中央競馬会はジャパンカップの創設以来「競馬の国際化」を視野に入れた多角的な活動を展開するようになった[48]。「国際化」とは、単に外国の競走馬を呼び寄せるだけでなく、制度面を含めた「国際標準」への適合をも意味していた。, 日本の競馬を「国際標準」へ適合させるため、日本中央競馬会はさまざまな施策を打ち出した。1984年(昭和59年)に導入された「グレード制」もそのひとつである。天皇賞も春・秋ともにGIとして格付けされたが、当初のグレード制は興行に主眼を置いた中央競馬独自の格付けに過ぎず、1970年代に欧米で作られた「グレード制・グループ制」とはまったく互換性のないものだった[49]。その後、さまざまな開放策を実施した結果、2005年(平成17年)には天皇賞が春・秋ともに国際競走となり、外国調教馬の出走が可能になった[1]。さらに、2007年(平成19年)からは格付けの互換性も認められるようになった[50]。, 1983年(昭和58年)11月、日本中央競馬会は昭和59年度の競馬番組について、グレード制の導入(前述)などの大幅改革を発表した[51]。この中に、天皇賞(秋)の施行距離を芝2,000メートルに短縮することが盛り込まれていた。レースの性格を大きく変えることになるこの変更に対し、伝統的な3,200メートルの距離を尊重する意見や東京競馬場(芝2,000メートル)のコース形態に対する問題点を指摘する意見[注 12][注 13]、また第1回ジャパンカップで日本勢が外国勢に大敗したことを踏まえ、スタミナよりもスピードの強化を重視する意見など賛否両論があったが、1984年(昭和59年)より天皇賞(秋)は施行距離が2,000メートルに短縮された[1]。以来、天皇賞(秋)は中央競馬の「中距離ナンバー1決定戦」の性格を持つようになった[1]。, 競走の規則も見直しが図られた。1950年代に欧米で定着した降着制度は1991年(平成3年)から中央競馬でも導入された[51]が、この年の天皇賞(秋)で1位入線馬が18着に降着となった。これは日本での重賞1位入線馬の降着例として史上初だっただけでなく、当該馬が圧倒的な単勝1番人気に推されていたことも相まって大きな話題になった[54]。, 帝室御賞典時代からの制度では、1度優勝した馬に再出走を認めない勝ち抜き制が1981年(昭和56年)から廃止され、過去の優勝馬も再出走が可能になった[1]ほか、種牡馬・繁殖馬選定の観点から長年認められていなかった去勢馬(せん馬)の出走も2008年(平成20年)以降可能になった[1]。また、1971年(昭和46年)から認められていなかった外国産馬の出走も2000年(平成12年)より可能になった[1]。, 1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典(第1回)以来「古馬の最高峰」として位置づけられてきた天皇賞だったが、1987年(昭和62年)より天皇賞(秋)は4歳馬も出走が可能になった[1]。また1980年代以降、短距離路線・ダート路線・牝馬路線の拡充が図られたことに加え、海外遠征も容易になった[55]。これにより、さまざまなタイプの競走を選択できるようになり、天皇賞は「数ある頂点のひとつ」という位置づけになっている。とはいえ、国内のGI競走では2014年(平成26年)現在もジャパンカップ、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念に次ぐ高額の1着賞金が設定されている(後述)[56]。, 国内最高クラスの賞金、皇室から下賜された天皇楯の権威、長い歴史と伝統などに裏打ちされ、今も天皇賞は「古馬最高の栄誉[1]」とされている。, 前述のとおり、天皇賞のルーツとなるMikado's VaseやThe Emperor's Cupなどでは、明治天皇から賞品が下賜されていた。これらは通常、貴金属としても美術品・工芸品としても価値が高いものであると同時に、「天皇から下賜された」という事実は金銭では贖えない栄誉を担うものだった。, 明治天皇は日本各地へ巡幸して、その先々で競馬を台覧し、優勝騎手や馬主らに賞金や賞品を下賜した。下賜された品々は、樽酒や黄八丈、白絽の反物、白羽二重、美術品、工芸品などである[57][注 14]。, 横浜競馬は多くの賞金や賞品を外部のパトロンやスポンサーから得ており、とりわけ皇室や皇族はその代表格だった。たとえばロシア皇太子の名を冠した “Cesarewitch Gift” という競走の賞品を実際に提供していたのは日本の皇室だった[59]。横浜競馬場で明治天皇が下賜したものは記録に残っているもので、「銅製花瓶」一対、「経一尺龍浮彫七宝入銀製花瓶」などがある[60]。1900年(明治33年)にはロシア全権公使ローゼン男爵がMirror号の優勝により「銀製花鳥七宝菓子敷」を授与されている[60]。ほかにも上野へ「金象眼銅製馬」を下賜した記録がある[61]。なお、皇室以外からでも、横浜競馬の神奈川賞杯競走で神奈川県令が「青銅製酒杯」を賞賜している[62]。, 天皇賞のルーツとされるThe Emperor's Cupの創設にあたって、明治天皇が下賜した御賞典を受け取った日本レース倶楽部では「尊重の重宝」と邦訳した。一方、1906年(明治39年)秋に池上競馬場で行われた皇室賞典では「銀製花盛鉢」が下賜された。これは直径が約30センチ(1尺)、深さが約15センチ(5寸)の大銀鉢で、三本の脚がつき、菊花の文様が高彫されていたと伝わる[25]。以後も菊花御紋付銀製花盛器(銀製鉢や洋杯)が下賜された[63]。御賞典は拝領する側にも相応のマナーが必要とされ、馬主や関係者は拝領式の際、正装(モーニングか国民服、軍服でも可)で臨むこととされていた[64][注 15][注 16]。, 1908年の帝室御賞典で日本レースクラブに下賜された御紋付花盛器(横浜競馬場メインスタンド), 楯(プレート)の下賜もまた、イギリス王室の伝統となっている。国を追われ、亡命先のフランスで馬術を磨いたチャールズ2世は王政復古が成って戴冠すると、ニューマーケット競馬場を復興した。1665年に国王チャールズ2世はタウンプレート(The Town Plate、もしくはNewmarket Town Plate)という競走を作り、自ら優勝楯を提供した。国王自身も騎手として優勝したことがある[67]。この競走は「King's Plate(女王の場合はQueen's Plate。Royal Plateとも呼ばれる)」として受け継がれ、現存する世界最古の競馬の競走である[67][注 17]。, 明治天皇の時代に始まった華やかな銀杯の下賜は、大正時代に勃発した第一次世界大戦の間も絶えることなく、30年以上続いた。一方、その間に中国大陸での動乱は激しくなり、1931年(昭和6年)の満州事変、1937年(昭和12年)には7月に盧溝橋事件、8月に上海事変が相次いで起きた。, その直後である1937年(昭和12年)9月、皇室は競馬会に対し、以後の御賞典下賜を年2回とするという通達を行っている。この通達により、年10回行われていた帝室御賞典は年2回施行になった(前述)。そして皇室は、帝室御賞典の回数を減らす分、御賞典をより立派なものにすることとなる[29]。また同時期、大陸での時局の緊迫化によって軍馬の需要が急増していた。軍部はより強固な馬政統制を行うため全国の競馬倶楽部を一本化して「日本競馬会」を作った。そして帝室御賞典は、軍部の求めるスタミナ溢れる馬を作るため、長距離の3,200メートルに改められた[29]。, 大陸での緊迫した情勢はさらに激しさを増し、日中戦争へと発展した。1939年(昭和14年)秋にはヨーロッパでドイツと連合軍が戦争を始め、日本に対しても「ABCD包囲網」と呼ばれる経済封鎖が1941年(昭和16年)より実施され、国内ではさまざまな物資が不足するようになった。これに伴う金属製品の統制を受け、帝室御賞典の賞杯も同年春から優勝楯に改められた[63]。, 新しい優勝楯の作成にあたり、宮内省は東京高等工芸学校教授の畑正吉にデザインを依頼[63]。これをもとに鋳物師の持田増次郎が金物を製作し、金メッキを施した2寸(約6センチ)もある菊の紋章と、板金をはめこんだ「競馬恩賞」の文字をラワン板にあしらった金御紋章付楯(いわゆる「天皇楯」)となった[63][34]。, 天皇楯の下賜も1944年(昭和19年)春の「能力検定競走」で下賜を辞退したことにより中断し、秋には帝室御賞典も中止となった。, 戦争で中断した競馬は終戦後に再開され、帝室御賞典は御賞典が下賜されなかったため、「平和賞」の名称で1947年(昭和22年)春に復活した(前述)。その後、1947年(昭和22年)秋に予定していた「第2回平和賞」の前日に皇室から天皇楯の下賜が決まった[34]が、天皇楯はこれ以降持ち回り制になった[34]。平和賞は急遽「天皇賞」に改称され、「第1回天皇賞[注 18]」として施行された[34]。ただし、前述の通りJRAでは1937年(昭和12年)秋の「帝室御賞典」を第1回としている[1]。, 表彰式で優勝馬主が楯を受け取る際は、白手袋を着用することが慣例となっている[2]。, 春(2020年、第161回)の1着賞金は1億5000万円で、以下2着6000万円、3着3800万円、4着2300万円、5着1500万円[69][8]。, 秋(2020年、第162回)の1着賞金は1億5000万円で、以下2着6000万円、3着3800万円、4着2300万円、5着1500万円[70]。, 1937年(昭和12年)に帝室御賞典が年2回施行に集約されて以来、天皇賞は日本国内で有数の高額賞金競走である。優勝馬の馬主に与えられる御賞典(優勝杯、優勝楯)の金銭的価値を一切考慮に入れないとしても、長い間、1着賞金の額は中央競馬で行われる競走の中でも上位を保ち続けた。2020年は、日本国内で施行する競馬の競走としてジャパンカップ・有馬記念の3億円、東京優駿(日本ダービー)の2億円に次ぐ高額の1着賞金が設定されている[7][注 19]。, 第1回(1937年秋の帝室御賞典)の1着馬には「本賞」として御賞典(優勝杯)、「副賞」として賞金1万円が与えられた。この賞金額は、当時国内の競走としては東京優駿(日本ダービー)の1着本賞1万円、横浜農林省賞典四・五歳呼馬(1943年で廃止)の1着本賞1万円と並び最高額だった。第1回は3着馬までにのみ賞金を与えていたが、翌年から帝室御賞典など国内主要18競走に限り、4・5着馬にも賞金を与えるよう変更された。1954年(昭和29年)からは天皇賞の1着馬に与える副賞金も「本賞」に含めることになった[80]。, 1955年(昭和30年)当時、国内の1着最高賞金は東京優駿(日本ダービー)の200万円で、天皇賞の150万円がこれに次いでいた。1956年(昭和31年)に有馬記念(中山グランプリ)が創設され、1着賞金は東京優駿(日本ダービー)と同じく200万円とされた。翌1957年(昭和32年)には天皇賞の賞金も200万円に引き上げられ、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念の4競走が国内最高額の競走となった。, 1959年(昭和34年)には東京優駿(日本ダービー)の賞金が300万円に増額され再び「国内最高賞金」となり、天皇賞と有馬記念は東京優駿に次いで2番目の高額賞金競走となった。その後、各競走の賞金は年々増加を続けるが、東京優駿が1位、天皇賞と有馬記念が同額で2位という序列が1973年(昭和48年)まで続いた。, 1974年(昭和49年)、天皇賞・東京優駿(日本ダービー)・有馬記念の賞金が同額になった。これ以降も賞金は伸び続けるが、これらの1着賞金は同額とされた。1981年(昭和56年)にジャパンカップが新設され、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念を含めた5競走が日本では最高賞金の競走になった。1990年代に入ると賞金が1億円を超えるようになり、1995年(平成7年)には5競走ともに1着賞金が1億3,200万円となった[注 20]。, 2001年(平成13年)よりジャパンカップの1着賞金が2億5,000万円と大幅に引き上げられ[注 21]、東京優駿(日本ダービー)・有馬記念も1着賞金が加増されたが、天皇賞の1着賞金は春・秋とも据え置かれた。, JRAが発表した2015年(平成27年)の重賞競走一覧によると、ジャパンカップ、有馬記念、天皇賞で1着賞金が増額。ジャパンカップは1着賞金が3億円となり、有馬記念は2億5,000万円、天皇賞は春・秋とも1億5,000万円にそれぞれ増額された[77]。, 大阪杯・天皇賞(春)・宝塚記念または、天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念の3競走を同一年にすべて優勝したJRA所属馬には内国産馬2億円、外国産馬1億円の褒賞金が賞金とは別に交付される[82]。この褒賞金は、クラス分けに用いる収得賞金には算入されない。, 2005年(平成17年)の第132回天皇賞(秋)は「エンペラーズカップ100年記念」と副題がつけられ、第125代天皇上皇明仁・上皇后美智子が東京競馬場に来場し天皇賞を観戦した。当初は前年の2004年(平成16年)に予定されていたが、施行日の8日前に発生した新潟県中越地震の被害に配慮して取りやめとなっていた。天皇が天皇賞を観戦した例は史上初めてであり、天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)も1899年(明治32年)以来106年ぶりとなった[23]。競走前に天皇・皇后は場内の競馬博物館で「エンペラーズカップ100年記念 栄光の天皇賞展」を鑑賞[23]。競走後に優勝騎手の松永幹夫が貴賓席に対して馬上から最敬礼を行った。, 2012年(平成24年)の第146回天皇賞(秋)では「近代競馬150周年記念」と副題がつけられ、7年ぶりに天覧競馬が実施された。この際、優勝騎手のミルコ・デムーロはコース内でいったん下馬して最敬礼を行った。本来このような行為は騎乗馬が故障した場合を除き、競走後にコース内で騎手が下馬することを禁止するJRA競馬施行規程[注 22]に抵触するものであったが、これを理由とした制裁は行われなかった[85]。, なお、第125代天皇・明仁とその皇后の美智子は皇太子・皇太子妃だった1987年(昭和62年)にも、天皇賞施行50周年を記念して行われた第96回天皇賞(秋)を台覧している[51]。, 天覧競馬となった第146回天皇賞(秋)を優勝後、本馬場で下馬し貴賓席に最敬礼するミルコ・デムーロ, 春の競走と秋の競走は開催地など競走条件が異なるものの同じ「天皇賞」であり、施行回数は春→秋と施行順に加算している。, 同一の競走名で1年に複数回施行する競走は、現在の中央競馬で本競走のみである[注 23]。, 4歳以上の馬(外国産馬・外国馬を含む)による重賞競走(GI)。施行距離は1939年(昭和14年)以来3,200メートルで変わっておらず、現存する中央競馬の平地GI競走では最長距離[注 24]。, 2008年(平成20年)よりメルボルンカップ( オーストラリア、GI)の前年度優勝馬[注 25]を招待するようになり[注 26]、本競走の優勝馬にも同年のメルボルンカップへの優先出走権が与えられる。, 2017年(平成29年)より大阪杯、宝塚記念とともに同一年に行われる3競走を全て優勝した馬に褒賞金が贈られる[87]。, 正式名称は「天皇賞」であるが、JRAでは天皇賞(秋)の距離が短縮された1984年(昭和59年)から「天皇賞(春)」と表記している[1]。, 世界の競馬開催国は国際セリ名簿基準委員会(ICSC)によってパートIからパートIVまでランク分け[88]されており、主要な競走は国際的な統一判断基準で評価が行われている。日本は平地競走が最上位の「パートI」、障害競走は「パートIV」に分類されている[88]。, 2019年(令和元年)現在、日本を含めパートIに分類されている国・地域のうち、3,000メートル級のG1競走を行っているのは、, 以上の6カ国だけである[88][注 27]。天皇賞(春)はこの分類で、ゴールドカップ、カドラン賞に続く世界で3番目の長距離戦に該当し、優勝馬を招待しているメルボルンカップとは同じ距離である。, 競馬の競走における距離別の区分法として定着しているSMILE区分によると、天皇賞(春)は2701メートル以上の「Extended(超長距離)」部門に分類される。国際競馬統括機関連盟(IFHA)が公表した2012年(平成24年)から2014年(平成26年)の年間レースレーティング[注 28]の平均値に基づく「世界のトップ100GIレース」によると、天皇賞(春)は全体の51位にランキングされ、Extended(超長距離)のカテゴリーからランクインした競走ではメルボルンカップ(69位)・セントレジャー(77位)を上回り、この部門で世界のナンバー1と評価された[90][91]。同じくIFHAが公表した2016年(平成28年)の年間レースレーティング[注 28]の平均値に基づく「世界のトップ100GIレース」によると、天皇賞(春)は全体の58位にランキングされ、Extended(超長距離)のカテゴリーからランクインした競走では同じく日本の菊花賞(43位)に次ぐ評価であり、メルボルンカップ(77位)・ゴールドカップ(99位)を上回り、この部門では菊花賞に次ぎ、世界のナンバー2と評価された[92][93]。, 単年度の競走馬ランキングでは、2013年(平成25年)の天皇賞(春)1 - 3着馬が世界の競走馬ランキング(超長距離部門・2013年)で上位3頭を占めた。ただし、Extended部門で首位の馬は、全体の38位にとどまっている[94]。, 出馬投票を行った馬のうち、以下の優先出走権を得ている馬から優先して割り当て、その他の馬は「通算収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI・JpnI競走における収得賞金」の総計が多い順に割り当てる。出馬投票締切の結果、出走申込頭数が出走可能頭数を超えた場合は、別に定めた方法または抽選で出走馬を決定する[95]。, スタート地点は観客席からみて向正面で、約1周半する。途中、第3コーナーから第4コーナーにかけて「淀の坂」と称される坂の上り下りがあり、天皇賞(春)ではこの坂を2度通過するため、「京都競馬場の難所」とされる[102][104]。, 1周目はスタート直後から100メートル進む間に約2.1メートル上る急坂となる。その後も緩やかに280メートルかけて約1.8メートルを上る。第3コーナーが坂の頂上にあたり、第4コーナーまで3.5メートルを下る[103]。第4コーナーを回って直線に入るまで0.8メートルほどの下り勾配がある[103][102]。, 2周目の第4コーナーを回り終えると最後の直線で、ゴールまでは残り約400メートルとなる[102]。, 競走名は第14回まで「帝室御賞典[1]」、第15回は「平和賞」、第17回以降は「天皇賞」。, 3歳以上の馬(外国産馬・外国馬を含む)による重賞競走(GI)。施行距離は1938年(昭和13年)から1983年(昭和58年)まで、春と同様に芝3,200メートル。1984年(昭和59年)から芝2,000メートルに短縮された。距離変更には賛否両論があった[117]が、短縮後は中距離の最強馬決定戦として位置づけられた[1]。施行時期も長年11月下旬で定着していたが、1981年(昭和56年)から10月下旬 - 11月初旬に繰り上げられた。, 2000年(平成12年)よりジャパンカップ・有馬記念とともに「秋の古馬三冠競走」とされ、同一年に行われる3競走を全て優勝した馬に褒賞金が贈られるようになった。, 正式名称は「天皇賞」であるが、JRAでは施行距離が短縮された1984年(昭和59年)以降「天皇賞(秋)」と表記している[1]。, 前述のSMILE区分によると、天皇賞(秋)は「Intermediate(1,900メートル - 2,100メートル)」に分類される。国際競馬統括機関連盟(IFHA)が公表した2012年(平成24年)から2014年(平成26年)の年間レースレーティング[注 28]の平均値に基づく「世界のトップ100GIレース」によると、天皇賞(秋)は全体の28位にランクインした[90]。「Intermediate(1900メートル - 2100メートル)」のカテゴリーからランクインした競走ではケンタッキーダービー(32位)やコックスプレート(35位)を上回り、同部門では香港カップ(25位)に次ぐ12番目の評価となっている[91]。同じくIFHAが公表した2016年(平成28年)の年間レースレーティング[注 28]の平均値に基づく「世界のトップ100GIレース」によると、天皇賞(秋)は全体の19位にランクインした[92]。「Intermediate(1900メートル - 2100メートル)」のカテゴリーからランクインした競走ではプリンスオブウェールズステークス(30位)やタタソールズゴールドカップ(30位)、ケンタッキーダービー(35位)を上回り、同部門では香港カップ(15位)に次ぐ9番目の評価となっている[93]。, スタート位置は第1コーナーの奥に設けられた「ポケット地点」と呼ばれる。スタートから120メートルほどで第2コーナーにかかり[118]、第2コーナーから向正面にかけての700メートルは落差2メートルの緩やかな下り勾配となる[118][119]。その後、向正面の半ばから約1.5メートルの急な上り坂になる[118][119]。これを上りきるとまもなく第3コーナーに入り、カーブを回りながら約1.8メートル下る[118][119]。第4コーナーからは上り勾配に転じ、直線に入る[118][119]。ゴールまでの直線は約525メートルで、JRAの競馬場では新潟競馬場(外回り:658.7メートル)に次いで2番目に長い[120][118][119]。直線の中ほどにも高さ2メートルの長い上り坂があり、坂を登り切ったあともゴールまで約250メートルの平坦路がある[118][119]。, スタートから最初のカーブまでが短く[注 32]、序盤から前へ行きたい馬が外側の枠に入った場合、スタートからすぐに先行できなければ、カーブで大きく外を回ることになり、距離を余計に走ることになるため、スタート直後の先行争いがひとつの見どころとなる[119][注 33]。, 旧幕府と借地契約を行って拓かれた横浜競馬場については、用地の賃貸料を巡って競馬場側と新政府の間に紛争があった。不平等条約(治外法権)の影響もあり、交渉は難航したが、1880年(明治13年)になってようやく解決をみた。このとき、賃料で両者が合意するにあたり、政府側からは競馬場の運営組織の名称を“Japan”ではなく“Nippon”にすること等が要望され、競馬場側はこれを受け入れた。この結果、競馬場は政府の公認を得た形となり、明治天皇はこれを機に賞品を下賜した。いくつかの史料には、これ以前にも明治天皇が横浜競馬場を訪問していたという記録がある。その一方で、借地問題が未解決の競馬場に明治天皇が行幸するはずがないとして、これを否定する文献もある, 雑誌「優駿」では“The Emperor's Cup”の日本語訳として、これを採用している, 後日、日本競馬会が慣例に従って競走結果を宮内省へ奏上した際、公式に「第1回天皇賞」としている。日本中央競馬会の古い資料や出版物には、1947年(昭和22年)秋の天皇賞を“第1回天皇賞”と表現しているものもある。, 第1回のみ「中山グランプリ」の名称で施行され、第2回から「有馬記念」に改称された。, カーブの半径やカーブまでの距離が危険であるという意見もあるが、同様のコース設定は地方競馬や海外の競馬場にも多数存在しており、, イギリス王室でも、競馬の賞品にワインや美術品、絵画、花器、名馬の毛で出来た鞭などを下賜していた。これらの賞品は金額に換算され、当時のリーディングサイアーの統計にも反映されている, こうした式典は、はじめの頃は競走終了後に行われ、その間は馬券の発売を停止していた。1940年(昭和15年)からは、競走終了後に薬物検査を行うことになり、その結果が出てから拝戴式を行うため、帝室御賞典当日ではなく、後日行われるようになった, なお、翌年(1666年)のこの競走は初めて明文化された規則に則って行われた最古の競馬の競走として記録されている, 2000年(平成12年)には特別ボーナスが創設され、同一年に天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念の3競走をすべて勝った日本産馬には2億円、外国産馬には1億円が授与されるようになった。なお、このボーナスは1着賞金に含めていない。, 2001年(平成13年)以降のジャパンカップは、世界でもトップクラスの高額賞金競走となった。海外の競馬では, 返し馬時に重りを馬場に捨て、競走後に下馬しコース上に捨てた重りを再び装着して検量室に戻るという不正を未然防止するため, このうち賞金額では、フランスのロワイヤルオーク賞が国内10番目、オーストラリアのシドニーカップは国内12番目、イギリスのセントレジャーは6番目、ゴールドカップは国内20番目に過ぎない。これに対し、オーストラリアのメルボルンカップは国内1位、ニュージーランドのオークランドカップは古馬の出走できる競走としては国内最高額である(ニュージーランド国内全体では3番目。1位はグレード外の2歳戦、2位は3歳戦)。日本の天皇賞(春)は国内4番目、菊花賞は7番目, 年間レースレーティングは、個々のレースにおける上位4頭のレーティングを年度末のランキング会議で決定した数値に置き換え算出した平均値。なお、牝馬限定競走以外のレースで、対象馬が牝馬の場合はアローワンスが加算される(日本の場合+4ポンド)。, スタートしてから最初のカーブまでの距離は約120メートルで、JRAの平地の芝コースの中では最も短い設定である。ほかに最初のカーブまでの距離が短いコースとしては、東京競馬場の1800メートル(約160メートル)、小倉競馬場の1700メートル(約170メートル)などの設定がある。, メジロマックイーンが1位で入線したがスタート直後に斜行し、18位で入線したプレジデントシチーの進路を妨害したとして審議の結果、最下位(18着)に降着。2位で入線したプレクラスニーが繰り上がった(参考:メジロマックイーンの走破時計 2:02.9)。, 『天皇賞全史』(週刊Gallop臨時増刊)、週刊Gallop第22巻47号(通巻1139号増刊)、産業経済新聞社、2014、p16-1, 『(人間の記録69)樫山純三』樫山純三・著、日本図書センター・刊、1998、p133, 毎日新聞1954年11月22日付「オパールオーキツトに栄冠 天皇賞 雨中に十頭が激戦」, 【29】天皇賞を盾と呼ぶのはなぜ?(競馬) ― スポニチ Sponichi Annex ギャンブル そこんとこ教えて, RacingPost 2009年5月25日 Richest prizes in world to overseas horses on offer, 日本中央競馬会競馬施行規程第8章第106条3、第120条 - JRAホームページ JRA関連法令等, INTERNATIONAL GRADING AND RACE PLANNING ADVISORY COMMITTEE "INTERNATIONAL CATALOGUING STANDARDS and INTERNATIONAL STATISTICS 2015", European Pattern Committee announces changes to the 2017 European Programme / 01 Feb 17, THE WORLD'S TOP 100 G1 RACES for 3yo's and upwards, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=天皇賞&oldid=80368709#天皇賞(春), いずれも1着賞金のみ(付加賞・褒賞金など1着賞金に含めないものは除く)の比較。単位:万円, 当該年に行われる以下の競走のいずれかで1着となった馬(中央・地方の所属は問わない), 1938年(昭和13年) - 「帝室御賞典」を再編し年2回の施行に改め、春の競走を阪神競馬場(旧・, 負担重量を「馬齢重量」から「定量」に変更(負担重量は5歳(現4歳)は58キロ、6歳(現5歳)以上は60キロ、牝馬1.5キロ減に設定), 1944年(昭和19年) - 「能力検定競走」として、京都競馬場の芝3,200メートルで施行, 1953年(昭和28年) - 6歳(現5歳)以上の負担重量を5歳(現4歳)と同じく、牡馬58キロ、牝馬2キロ減に変更, 2014年(平成26年) - トライアル制を確立し、指定した競走の1着馬に優先出走権を付与。, レースレコード - 3:12.5(第155回優勝馬 キタサンブラック)なお、このタイムは芝3,200メートルのJRAレコードおよび京都競馬場芝外回り3,200メートル3歳以上のコースレコードでもある。, 1937年(昭和12年) - 「帝室御賞典」を再編し年2回の施行に改め、秋の競走を東京競馬場で施行。, 1938年(昭和13年) - 施行距離を芝3,200メートルに、出走条件を5歳(現4歳)以上に変更, 2001年(平成13年) - 馬齢表記を国際基準へ変更したことに伴い、出走条件を「4歳以上牡馬・牝馬」から「3歳以上牡馬・牝馬」に変更。, 2004年(平成16年) - 「日本中央競馬会創立50周年記念」の副称をつけて施行, 2008年(平成20年) - 出走条件を「3歳以上牡馬・牝馬」から「3歳以上」に変更, レースレコード - 1:56.1(第144回優勝馬 トーセンジョーダン)なお、このタイムは芝2,000メートルのJRAレコードである。.

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